「堀江はるよのエッセイ」

〜日常の哲学・思ったこと考えた事〜

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 西


四の巻

カラス

プロ

ばら

小粒







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カラス






















































 カラスが多い。

 小柄な私が、輪にした腕を胸に近寄せると、
 ちょうど、いつも見るカラスの大きさになる。
 嘴から尾まで、40センチを越えるのではないか。

 目を合わせてはいけないと聞いた。
 憶えていて、思わぬときに後ろから襲ったりするという。

 黒いものをブラブラ持っていると襲われるそうだ。
 仲間のカラスを殺して死体を運んでいる…と判断するらしい。

 巣を上から覗き込むと、親鳥は反撃できなくなる。
 だから巣を落とすのは、そんなに難しくないと植木屋さんが言った。
 自分より大きな奴が来たと思うのだろうか。

 長い棒状のものを向けると逃げるのは、
 鉄砲で脅されつづけた先祖のDNAが働いているのだろう。


 近くの家の大木が切り倒された。
 庭に木のある我が家を、カラスは偵察中だ。

 遠くの電柱の上からこちらを見てカアカア鳴く。
 ほっておくと、ふいにバサバサと飛んできて上空を横切り、
 屋根の上のアンテナにとまる。

 私は飛び出して、いつもの棒を探す。
 黒い長い角材を、頭にツノのように立てて、
 ノッシノッシと、恐竜のように歩き回る。

   “おまえはナンじゃぁ〜
       ここはオレサマのテリトリィだぞう〜
          にげるなら、いまのうちだぞう〜”

 そして、ハッと角棒の先をカラスに向ける。

 カラスは逃げない。
 知らん顔で、何かつついたりしている。

 私は、ふと角材の筒先を反らす。

 角材と私が横を向いたとたん、カラスは飛び立つ。
 先祖のDNAは、ここでも働いているらしい。


 ご近所の方々は、私のことをどう思っておられるだろうか?
 でも、しかし、どう考えても、カラスと話し合うには、
 今のところ、これしか方法がない。


                         2005.5
 



     
プロ






















 “堀江さんは、それで食べてないから、いいでしょ…”と、
 にこやかに作品使用への報酬を値切られた事がある。

 始めは何のことか分からなかったが、しばーらくして気がついた。
 食べてない=食べなくて良い=夫に扶養されている身分だから…という意味らしい。
 食べようと食べまいと、報酬は作品の値打ちに応じて決めるものだろう。
 “あなたの作品は、お金にならないから”と言われる方が、私は納得できる。

 それで食べているかどうかで、プロとアマチュアを分ける人がいる。
 それで食べようとして食べられないでいる人は、どちらに分類するのだろう。
 食べる食べないで言うなら、プロかアマチュアかは状況に過ぎない。

 心の自由がほしいからアマチュアに徹すると言う人がいる。
 プロと名乗ろうとアマチュアと名乗ろうと、
 心の自由を持ち続けるのが難しいのは、同じことだ。

 もし、心の持ちようでプロとアマチュアの間に一線を引くならば、
 どのような状況にあっても、たとえ暮らしのために不本意なことをしていても、
 心の自由を守り抜こうとする人、守り抜く力量を持った人がプロだと、私は思う。


                          2005.5



ばら



























 紅バラが咲いた。

 たわわに咲いて、咲ききった花から、
 暖かい日、風の強い日にハラハラと花びらを散らす。

 私は食いしん坊なので、花びらでジャムを作る。

 幾重にも重なった花びらの外側が反って、ボンボンのように丸くなったのを、
 包みこむように、ゆるくつかんで、そっと引くと、
 咲ききった花は、手袋をぬぐように花びらだけが外れる。
 引いても取れないのは、まだ咲いていたい花。
 “ごめんね”と言って、あきらめる。

 集めた花びらを、洗って水気を切って、ブランデーと砂糖に漬ける。
 冷蔵庫の中のパイレックスのお鍋に花びらが溜まると、
 クツクツと時間をかけて煮上げてジャムにする。

 一昨年は、ジャムを入れてバラのパウンドケーキを焼いた。
 去年はケーキを焼く時間が無くて、ロシアン・ティーだけを楽しんだ。

 今年、“ああ、バラが咲いてしまった。ジャムにしなければ”と、
 急かされたように思って、粗雑になっている自分を省みた。
 
 もうすぐドクダミの収穫の季節になる。


                          2005.5



小粒


 同じ学園に通った小学校から中学にかけて、クラスに何人か小柄な女の子がいた。
 一クラスに男子が三十人余り、女子は十人くらいだったから、
 中学にもなって男の子たちの背丈が伸びてくると、
 小柄な女の子は、いっそう小さく見える。

 話しても笑っても、可愛い。
 まるで、大人になることを猶予されているように見える。
 生々しさの感じられない、活発で明るい小粒な少女たちに比べて、
 背丈も肉づきも中くらいの自分が、どんよりとした存在に感じられた。


 40歳を過ぎたころ、ピアノを弾いていたら“小さな手だなぁ!”と言われた。
 “ねぇ…”と言っている二人は、大柄な男性で、手も大きかった。

 その頃から、まわりに背の高い人が多くなったような気がする。
 仕事仲間に始まって、コンビニのお兄さん、電車の中の高校生、中学生。
 今、そんなふうに私の周りにいる人を集めて、四十人くらいの集団を作ったら、
 私は、たぶん小柄な方に入るだろう。

 小さいことへ憧れなくなった今になって、
 私は夢かなって、どうやら「小粒な老女」になりそうだ。


                              2005.6


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