「堀江はるよのエッセイ」

〜日常の哲学・思ったこと考えた事〜


CDと楽譜


二十六の巻

演奏

そして近況

演奏・その2
 


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カタツムリの独り言
こちら!


演奏


11月に録音する「日記のような小曲集」が、どうやら弾けるようになって、
ちょっとホッとしている…なんて書くと、どんなに指の忙しい、テクニックの
難しい曲を作ったのかと思われそうだけれど、そんなことはない。指の動きで
言えば私の曲は、中級程度のテクニックの人でも、練習すれば弾けるだろう。
かなり丹念な練習は必要かもしれないけれど。

難しいのは演奏の演のほう、「演じる」ことだ。
作曲家は脚本家、演奏家は俳優に似ていると、私は思う

例えば、脚本家の私がト書きに「男、ふと振り向く」と書く。
俳優が「フッと」振り向いたら、私は文句を言うだろう。
それではストーリーが変わってしまう。
脚本のその前の部分に「ドアが細く開く」と書いてあるとして…

 @ドアが細く開く。 男、ふと振り向く
 Aドアが細く開く。 男、フッと振り向く

小さな事だけれど@とAでは、その場の雰囲気、男の性格、ドアの向こう
に居るのが誰(何)かなど、様々なことが微妙に変わってくる。

ここで私が書いたのは、ホームドラマの一場面だとしよう。
お話を読んでもらいたい幼い娘が、そっとお父さんの部屋のドアを開ける。
なのに、「フッと振り向く」なんて演技をされては、優しい父親が神経質な
イライラした人物になったり、もしかしてドアの外に立っているのは妖怪?
みたいな雰囲気になって、ドラマの進行に差し支える。

…というようなことを、他人様には言うのだけれど、その演じるほうを自分で
するとなると、これが難しい。振り向くという動作一つとっても、右から振り
向くのか、左から振り向くのか、首だけか肩からか、目線はどのように動くか
など、一つ一つを具体的に決めて、自分の体にプログラミングしなければなら
ない。それが出来るのが演奏家。作曲家の私は、演奏家の真似事をしてみて、
改めて難しいなぁと思った。


そういう意味での演じ方…演奏の設計が決まって、今は楽しんで弾いている。
この曲集は、泣いたり笑ったりカラフルで、あっちこっちに意外なセリフや
ジョークが、たっぷり仕込まれていて、弾いていると一人でミュージカルを
演じているような気持になる。

作曲している時は、自分が書きたがっていることを無意識の底から汲み上げて
音にするのに忙しくて、それが何を表しているのかは余り考えていないけれど、
弾きこんでみると、思いがけない自分の本音に気がついたりもする。


幼いころ、ピアニストになりたかった。
その夢が今ごろになって、ちょっと叶っている。
あとは「間違えないで、もっと上手に」弾けるようになるだけ。
4月の録音は楽しかった。11月の録音も、目いっぱい楽しみたい。

フレー・フレー・わ・た・し!


                          2014.7.15


そして近況


フォルテピアノのための連弾「組曲こどものとき」を、一応書き終えた。
鉛筆で走り書きした楽譜を、シャープペンシルで書き直した「第一次清書」を
ピアノの譜面台に置いて、さて…これで良いかしら…と見直している。

今日は何と、9時まで寝てしまった。
いつもは5時半には起きるので、3時間半の寝坊。自分でもビックリした。
振り返れば27年間、柳に飛びつく蛙よろしく、ジャンプし続けてきた。
思わぬ展開があってホッとしたものの、それでも頑張り気分が抜けないまま、
仕事やら家の用事やら、次はこれ、次はこれ…と休まずに来たのが、
何かのはずみで、ふと紐が解けたように気が緩んだらしい。

      *     *     *     

今回の譜面には、ところどころ日本語の言葉を書いている。
多くの場合、日本では演奏者への指示を、イタリア語など外国語で書く。
音楽の世界では、それがある程度は共通語になっているからなのだけれど、
その言葉がどういう意味なのか、日本人の私の理解と他の国の人の理解が、
それほど大きく違わないだろうと確信の持てる言葉は、実は余り多くない。
思うように伝えたいことを伝えられないので、日本語も使うことにした。

たとえば2曲目の「おもしろいお話」に書いたのは、こんな言葉。
芝居のト書きのようなものかしら。

     ・笑うのは小鬼  ・まぁお聞き  ・さぁ大変!
     ・大団円…堂々と立派に  ・出発!…わいわいガヤガヤと


曲の冒頭には、こんな文章を添えている。

     おもしろいお話は、こどもの宝物
     ファンファーレと共に はじまって
     塔の上にはお姫さま すずの兵隊も王様の行列も 
     「…とサ」という呪文で おとぎの国へ帰って行く


譜面を公開するときは、これに英訳を添える。

      *     *     *     

11月に「日記のような小曲集」の録音を終えた後、体調を崩した。
もうすっかり良くなったけれど、トシの限界が来たかと、暫くは心配した。
こんなふうで今後どうしたら自分のしたいことを続けられるだろう、何とか
しなければ…と、生活全般を見直したのが、結果的には次へ向けての老躯の
メンテナンスになったし、目論んでいた無茶にも歯止めがかかったから、
あれはあれで良かったのかもしれない。

そんなこんなしている内に、CDはマスタリングを終えた。ブックレットの
原稿も、表紙のイラストも全て揃って、制作は最終段階に入っている。

ちらしの原稿は只今作成中。デザインはいつもの沖直美さんにお願いする。
江ア浩司さんが、素敵な推薦文を書いて下さった。
応援して下さる
皆様に、早くお見せしたい。

                          2015.2.12



演奏・その2


3月に大田区民ホールでのコンサートで、ピアニストの丹野めぐみさんが、
私の 「日記のような小曲集」から、第1曲 の “Page1” を演奏された。
同じこの曲を、私は昨年11月に
CDのために、自分の演奏で録音している。
丹野さんがどんなふうに弾かれるか、楽しみだった。

演奏が始まって、あ… と思った。物陰に隠すように置いて私も忘れていた
ものが、大切に取り出されて、そっと優しく、聴く人に差し出されている。
内緒にしていたことを見つけられてしまった気がして、
私は嬉しいような困ったような気分になった。

      *     *     *     

人は五感でものを感じる。感じたことは、そのまま心に保存される。
あのとき…と思い出すと、こんなふうだった…と、感覚のファイルが開かれて、
タイムトリップしたように「そのときの感じ」が丸ごと再生される。

けれど、それを言葉で表そうとしたとき、「丸ごと」は欠けてしまう。
どう言っても、何かが違う。言葉にすることで、何かがこぼれてしまう。
それを拾い上げようとして言葉を重ねれば重ねるほど、意味するところは細分化
され限定されて、元の情報とは微妙に違うものになってしまう。

こんなふう…と感じたことを、そのまま丸ごと伝えたくて、私は作曲する。
音楽という形をとることで、私の「こんなふう」は、別なルートから人の五感に
届いて、その人の心にダウンロードされる。五感から五感へ…それが音楽だ。


      *     *     *     

その音符が何を表しているのか、言葉で説明することは、私には出来ない。
そもそも「こんなふう」としか言えないから音符にしたのだ。
CDのための録音のとき、私は自分の書いた音に体をゆだねるようにして、
「こんなふう」が、そのまま「こんなふう」と再現されるように弾いた。

私は「こんなふう」としか弾かなかった…弾けなかったのに、
丹野さんの演奏は「それは、こういうことなのでしょう」と伝えている。
演奏家って、すごい。そんな情報、どうやって見つけたのだろう?


5月13日のコンサート「煌めく音符たち 第一章」で、丹野さん
この「日記のような小曲集」の、Page1〜10と終曲まで、全曲を演奏する。
同じ曲を収録した私のCD「鶴によせて」は、6月1日にリリースされる。

二つの演奏、聴き比べてご覧になったら、きっと面白いでしょう。


                          2015.4.15



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