「堀江はるよのエッセイ」 〜日常の哲学・思ったこと考えた事〜 |
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十六の巻 白い花 練習中 エコ |
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白い花 | |||
東京へUターンして7年になる。 作曲家としては、必ずしも楽ではなかった。 私の作曲の基本は、たぶん歌だろう。 まだ家にピアノが無かった幼い頃、私は散髪用の白い布をロングスカート代わりに 腰に巻いて、思いつく限りのことを歌いながら家中を踊ってまわって、祖母をして “この子、だいじょうぶかね?”と言わしめた。 5歳のときに、64鍵の小さなピアノが家に入って、歌に伴奏がついた。 その長い年月を経た続きが「たんぽぽ」をはじめとする私の歌だ。 30年以上、歌を書かない時期があった。 言葉がネックで、何を言うか、どのように言うか、心が決まらなかった。 言わなくてもよいことを、音楽にしてまで人に伝えようとは思わない。 2004年の「たんぽぽ」で、その…いわば蓋のようなものがとれた。 続いて2005年に「訪れ」「クリスマスローズ」。 そこで、はたと筆が止まった。内面がザワザワしているとき、歌は作れない。 揺れる水面が静まる時間が、細切れでも良い、必要だ。それが持てないまま、 時間が…年月が過ぎた。“ほんとは歌集にしたいけど無理かもね”と思った。 「舟」が書けたのは今年、2009年1月。計算上は4年だけれど、気持の 上では10年も待ったような気がする。梅津さんと電話でおしゃべりしながら “次の曲はどうしよう…出来るかなぁ?”なんて言っていたら次のアイディアが 浮かんで、次、また次…と、そんなふうにして5月までに6曲書けた。 一つ書くたびに“もう出来ないかもね”と思ったが、これは私の癖らしい。 今、机に向かってペンで清書している。“とうとう書いちゃったなぁ”と思う。 ヴァイオリンの「ポニーテイル」と「子守歌」を加えて12曲。 もう一つピアノソロを書いて、秋に「堀江はるよのコンサート」をしよう。 ピアノは私が弾く。 5曲目の「五月」は“白い花が咲いているから…”と始まる。この白い花は ニセアカシアだけれど、いま見える庭にはドクダミの白い花が咲いている。 やっと、ここまで来た。 歌集の最後の曲は「わたしの友だち」。花から人まで、すべてに感謝したい。 2009.5.21 堀江はるよのコンサート文字放送版へ |
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練習中 | |||
「堀江はるよのコンサート」のプログラムの初めに、ごあいさつの代わりに弾く ピアノ曲を書いた。小さな可愛らしいカノンで、ピアノが“ラララ”と歌う。 それってどういうこと?…と思われる方は、聞きにいらして下さい。 練習は楽しい。指遣いを書き込んで、丁寧にさらう。 自分の作った曲なのだから簡単に弾けるかというと、そうではない。 私の場合、作曲と演奏では正反対の作業をしているのではないかしら。 この譜面は、どんなふうに弾けるかな? こんなふうにも弾けるな、あんなふうにも弾けるな、 じゃぁ、どれにしようかな? …と考えるのが演奏。 この譜面に書いた音で、こういうことを聴く人に伝えるには、 こんなふうに弾いてもいい、あんなふうに弾いてもいい、 いや、もっともっといろんなふうに弾けそうだな、 うん…こりゃいいや、後は演奏者に任せよう! …と考えるのが、作曲。 私はもともと作曲向きの人間なのだろう。 自分の曲を練習していると、“ごっこ”をしているようで楽しい。 いたずらっ子が今日だけ良い子してるような気がする。 * * * 庭を少しずつ、畑にしている。 土作りをしようと野菜くずを埋めたら、ジャガイモが芽を出した。 アトランダムに出てきたのを適当に植えなおしたら。ジャガイモ畑が出来た。 隣りにイチゴが二株、反対側にミントが数株あったのが、それぞれツルを伸ばし、 根っこを伸ばして、その間から今年もシソが芽を出したので、二ヶ月ほどしたら てんでに広げた葉っぱで、小ぶりのジャングルのようになった。 イチゴは来年のお楽しみだけれど、ミントはもうすぐ収穫期。シソを摘んでは お蕎麦の薬味にしたり餃子に入れたり。新ジャガは、掘るとミニからミディまで コロコロと、お味噌汁の実くらいは出てくる。うん…こりゃいいや、と楽しんで いたが、ちゃんとした畑にしようと思ったら、これではいけないらしい。 まだ残っていたパンジーの根を、抜いて掘り返して、土をお日様にあてるように、 行きつけの苗屋さんに注意された。そうしないとアブラムシが発生するそう。 もうちょっと、ちゃんとした畑もある。 大きなスコップで40センチくらい掘り下げて、手で土を揉んでサラサラにして、 昔ながらの肥料「ボカシ」を入れ、畝を作ってオクラと二十日大根の種をまいた。 雀につつかれないように、金網の蔽いもしてある。 間引きが苦手…ダメそうなのを選んで抜くなんて、身につまされて出来ないので、 少し間を詰めて一粒ずつタネを埋めた。発芽率80%だそうだから自然に任せて、 出てきたのは可能なかぎり育てるつもり。 こちらの畑の面倒をみていると、自分がとてもちゃんとした人間になったような 気がして嬉しい。自分の曲を練習するのと、どこか似ている気がする。 |
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エコ | |||
夏というと思い出すのは、庭の手入れをしている祖父の姿だ。 ペロペロした薄地のメリヤスの申又(さるまた)一枚で、他には何も身につけて いなかった…などと言うと、どんな野生的な人かと思われそうだが、人が訪ねて くれば、着物に帯で応対する。普通の服装感覚の人だった。 父も、晩年はそんなことは無かったが、若い頃は相撲取りのように太っていたせい もあって、家では冬は浴衣、夏はパンツ一枚でいることが多かった。 母の実家へ行くと、こちらの祖父は、厚地の木綿のショートパンツをはいていた。 朝は、上半身ハダカで頭を手拭いで包んで、書斎の掃除をする。祖父は学者で、 そのままの格好でタイプライターを叩いていることもあった。 どちらの家も、とりたてて庶民的というわけではなかったけれど、くだけた場で 男性が肌をさらすことに、嫌悪感を持つ風は無かった。 女性は…と言えば、どちらの祖母も、ほとんど下着姿を見たことが無い。 外出のために着替えるときに、肌襦袢と腰巻の姿を一瞬見るだけだったのは、 彼女たちの父親が、腰に刀を差しているような人たちだったからだろう。 もう少し庶民的な女性たちは、あの頃、肌を見せることに、もっと自由な感覚を 持っていたように思う。 “もう お色気はイイよね”と、自分から降りちゃった 老齢の女性…お婆さんは、暑い日など、プライベイトなスペースでは、タプタプ したお乳を見せて、腰巻一つでペチャッと坐って団扇(うちわ)を使っていたり した。お爺さんとの違いは、脚を見せないことで、腰巻は足首近くまであった。 電車の中で授乳する風景が見られなくなったのは、いつ頃からだろうか。 赤ちゃんが泣く…皆の目が集まる…母親が何やらゴソゴソしてから、体を傾けて 赤ちゃんを胸に抱え込む。ハンカチなどかぶせた間から、頬を膨らませて乳首に むしゃぶりついている赤ちゃんの顔が見えて、和やかな空気が漂った。 昔が全て良いとは思わないけれど、あの大らかさは懐かしい。 そうだ…エコにもなることだし、私ももうしばらく長生きして貫禄がついたら、 老年ならではの腰巻一つ、歴史を秘めたオッパイに扇風機の風をあてながら、 “きょうも暑うござんすねぇ”などといって夏を過ごそうかしらん。 2009.8.19 |
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堀江はるよ公式サイト・エッセイで描く作曲家の世界 <カタツムリの独り言>
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