「堀江はるよのエッセイ」

〜日常の哲学・思ったこと考えた事〜


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白い花


  東京へUターンして7年になる。
  作曲家としては、必ずしも楽ではなかった。

  私の作曲の基本は、たぶん歌だろう。
  まだ家にピアノが無かった幼い頃、私は散髪用の白い布をロングスカート代わりに
  腰に巻いて、思いつく限りのことを歌いながら家中を踊ってまわって、祖母をして
  “この子、だいじょうぶかね?”と言わしめた。

  5歳のときに、64鍵の小さなピアノが家に入って、歌に伴奏がついた。
  その長い年月を経た続きが「たんぽぽ」をはじめとする私の歌だ。


  30年以上、歌を書かない時期があった。
  言葉がネックで、何を言うか、どのように言うか、心が決まらなかった。
  言わなくてもよいことを、音楽にしてまで人に伝えようとは思わない。
  2004年の「たんぽぽ」で、その…いわば蓋のようなものがとれた。

  続いて2005年に「訪れ」「クリスマスローズ」。
  そこで、はたと筆が止まった。内面がザワザワしているとき、歌は作れない。
  揺れる水面が静まる時間が、細切れでも良い、必要だ。それが持てないまま、
  時間が…年月が過ぎた。“ほんとは歌集にしたいけど無理かもね”と思った。

  「舟」が書けたのは今年、2009年1月。計算上は4年だけれど、気持の
  上では10年も待ったような気がする。梅津さんと電話でおしゃべりしながら
  “次の曲はどうしよう…出来るかなぁ?”なんて言っていたら次のアイディアが
  浮かんで、次、また次…と、そんなふうにして5月までに6曲書けた。
  一つ書くたびに“もう出来ないかもね”と思ったが、これは私の癖らしい。


  今、机に向かってペンで清書している。“とうとう書いちゃったなぁ”と思う。
  ヴァイオリンの「ポニーテイル」と「子守歌」を加えて12曲。
  もう一つピアノソロを書いて、秋に「堀江はるよのコンサート」をしよう。
  ピアノは私が弾く。


  5曲目の「五月」は“白い花が咲いているから…”と始まる。この白い花は
  ニセアカシアだけれど、いま見える庭にはドクダミの白い花が咲いている。
  やっと、ここまで来た。

  歌集の最後の曲は「わたしの友だち」。花から人まで、すべてに感謝したい。


                            2009.5.21


                  
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練習中


  「堀江はるよのコンサート」のプログラムの初めに、ごあいさつの代わりに弾く
  ピアノ曲を書いた。小さな可愛らしいカノンで、ピアノが“ラララ”と歌う。
  それってどういうこと?…と思われる方は、聞きにいらして下さい。

  練習は楽しい。指遣いを書き込んで、丁寧にさらう。
  自分の作った曲なのだから簡単に弾けるかというと、そうではない。
  私の場合、作曲と演奏では正反対の作業をしているのではないかしら。
  

   この譜面は、どんなふうに弾けるかな?
   こんなふうにも弾けるな、あんなふうにも弾けるな、
   じゃぁ、どれにしようかな?

  …と考えるのが演奏。


   この譜面に書いた音で、こういうことを聴く人に伝えるには、
   こんなふうに弾いてもいい、あんなふうに弾いてもいい、
   いや、もっともっといろんなふうに弾けそうだな、
   うん…こりゃいいや、後は演奏者に任せよう!

  …と考えるのが、作曲。

  私はもともと作曲向きの人間なのだろう。
  自分の曲を練習していると、“ごっこ”をしているようで楽しい。
  いたずらっ子が今日だけ良い子してるような気がする。

     *     *     *

  庭を少しずつ、畑にしている。
  土作りをしようと野菜くずを埋めたら、ジャガイモが芽を出した。
  アトランダムに出てきたのを適当に植えなおしたら。ジャガイモ畑が出来た。
  隣りにイチゴが二株、反対側にミントが数株あったのが、それぞれツルを伸ばし、
  根っこを伸ばして、その間から今年もシソが芽を出したので、二ヶ月ほどしたら
  てんでに広げた葉っぱで、小ぶりのジャングルのようになった。

  イチゴは来年のお楽しみだけれど、ミントはもうすぐ収穫期。シソを摘んでは
  お蕎麦の薬味にしたり餃子に入れたり。新ジャガは、掘るとミニからミディまで
  コロコロと、お味噌汁の実くらいは出てくる。うん…こりゃいいや、と楽しんで
  いたが、ちゃんとした畑にしようと思ったら、これではいけないらしい。
  まだ残っていたパンジーの根を、抜いて掘り返して、土をお日様にあてるように、
  行きつけの苗屋さんに注意された。そうしないとアブラムシが発生するそう。
    
  
  もうちょっと、ちゃんとした畑もある。
  大きなスコップで40センチくらい掘り下げて、手で土を揉んでサラサラにして、
  昔ながらの肥料「ボカシ」を入れ、畝を作ってオクラと二十日大根の種をまいた。
  雀につつかれないように、金網の蔽いもしてある。

  間引きが苦手…ダメそうなのを選んで抜くなんて、身につまされて出来ないので、
  少し間を詰めて一粒ずつタネを埋めた。発芽率80%だそうだから自然に任せて、
  出てきたのは可能なかぎり育てるつもり。

  こちらの畑の面倒をみていると、自分がとてもちゃんとした人間になったような
  気がして嬉しい。自分の曲を練習するのと、どこか似ている気がする。




エコ


  夏というと思い出すのは、庭の手入れをしている祖父の姿だ。
  ペロペロした薄地のメリヤスの申又(さるまた)一枚で、他には何も身につけて
  いなかった…などと言うと、どんな野生的な人かと思われそうだが、人が訪ねて
  くれば、着物に帯で応対する。普通の服装感覚の人だった。

  父も、晩年はそんなことは無かったが、若い頃は相撲取りのように太っていたせい
  もあって、家では冬は浴衣、夏はパンツ一枚でいることが多かった。

  母の実家へ行くと、こちらの祖父は、厚地の木綿のショートパンツをはいていた。
  朝は、上半身ハダカで頭を手拭いで包んで、書斎の掃除をする。祖父は学者で、
  そのままの格好でタイプライターを叩いていることもあった。

  どちらの家も、とりたてて庶民的というわけではなかったけれど、くだけた場で
  男性が肌をさらすことに、嫌悪感を持つ風は無かった。


  女性は…と言えば、どちらの祖母も、ほとんど下着姿を見たことが無い。
  外出のために着替えるときに、肌襦袢と腰巻の姿を一瞬見るだけだったのは、
  彼女たちの父親が、腰に刀を差しているような人たちだったからだろう。

  もう少し庶民的な女性たちは、あの頃、肌を見せることに、もっと自由な感覚を
  持っていたように思う。 “もう お色気はイイよね”と、自分から降りちゃった
  老齢の女性…お婆さんは、暑い日など、プライベイトなスペースでは、タプタプ
  したお乳を見せて、腰巻一つでペチャッと坐って団扇(うちわ)を使っていたり
  した。お爺さんとの違いは、脚を見せないことで、腰巻は足首近くまであった。


  電車の中で授乳する風景が見られなくなったのは、いつ頃からだろうか。
  赤ちゃんが泣く…皆の目が集まる…母親が何やらゴソゴソしてから、体を傾けて
  赤ちゃんを胸に抱え込む。ハンカチなどかぶせた間から、頬を膨らませて乳首に
  むしゃぶりついている赤ちゃんの顔が見えて、和やかな空気が漂った。


  昔が全て良いとは思わないけれど、あの大らかさは懐かしい。
  そうだ…エコにもなることだし、私ももうしばらく長生きして貫禄がついたら、
  老年ならではの腰巻一つ、歴史を秘めたオッパイに扇風機の風をあてながら、
  “きょうも暑うござんすねぇ”などといって夏を過ごそうかしらん。


                            2009.8.19


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