カントリーダンス |
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「カントリーウエスタン」でも「田舎の踊り」でもありません。
17世紀に流行したイギリスの踊り。フランスに渡ってコントルダンスとなり、
さらに変形してかドリーユになったそうです。とにかく楽しい踊りだったので、
あっというまに広まり、身分制度のきびしかったその時代に、上から下まで、
どの階層ということもなく皆に愛されて、いま現在も踊られています、
カントリーダンスは、幾つかの旋律が8小節単位で繰り返されるのが決まりです。
でも私の「カントリーダンス」は、全然そうなっていません。分析してみましょう。
A(5小節) A(5小節) B(4小節)
A(4小節) C(4小節半) B+A(5小節) A(5小節)…etc.
おやまぁ…メッチャクチャですね!
これは間違って書かれたカントリーダンスなのでしょうか?
いや、ちょっと頭を緩めましょう。
そして仮に、これが「楽曲」ではなく映画だと思ってみませんか?
どこかから聞こえてくるダンスの曲、
カメラが踊る人々を捉える…
興奮した息遣いやざわめきに混じって一瞬ン響く嬌声、
乱れるステップ、グループからグループへのカメラの移動、
そして嬉しげに歌う大男のアップ、
手を叩く女たち…
こういうものを8小節+8小節+8小節+8小節…のような整然とした形の音楽で
表現できるものでしょうか? 正しい形式によってカントリーダンスを書くことと、
カントリーダンスを正しく表現することとは、イコールに成り得るでしょうか?
この曲は、カントリーダンスを踊るための曲ではありません。
この曲は、カントリーダンスを描いた曲なのです。
(小曲集「ポケットの中から」解説より…少し書き換えました)
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★ 形式は、過去の経験の記録です。もちろん今に生かすことができますが、
それによって不自由になるためのものではありません。
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ロマンス
現代音楽 リズム |
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クラシック(古典音楽)、現代音楽、ポピュラー音楽という分類のしかたがあります。
この中の「現代音楽」という言葉に、私はいつも引っかかります。
現代に生きる私たちが作る音楽は、みんな現代音楽ではないかと思うのですが、
音楽の世界では、「現代の音楽」と「現代音楽」は別なものとされています。
そして私が十代の頃に「現代音楽」であったものは、今は「現代音楽の古典」と
呼ばれていたりします。いやはや…。
作曲のコンクールでは、何か新しいことをしようとする作品が、挑戦的、意欲的などと
いう言葉で、高く評価される傾向がありますが、これはナンセンスだと私は思います。
新しいものは出来た瞬間に、もう既に古いのです。つねに新しいものを求めるという
のは、作品ではなく「作曲すること」だけに価値を置く考え方です。
音楽は実用品だと、私は思います。食べる人を考えないお料理が有りえないように、
聞く人を考えない音楽は有りえません。どのような考え方で、どのような方法で音楽を
書くかは、作る側の事情です。音楽の価値は、その曲が様々な条件のもとで、聞く人に
とってどのように感じられるかによって、その時々に決まるのではないでしょうか。
いろんな音楽があるのが楽しい…と私は思います。
私が645年などではなく1944年に生まれてきたお蔭で、びっくりするほど沢山の
種類の音楽を聞いて育ち、音楽の様々な魅力を楽しむことが出来たのは、幸せでした。
音楽は人と似ています。好き嫌いはあっても上下は無く、簡単な音楽も手間のかかった
音楽も、そのことによって偉かったり偉くなかったりすることはありません。
ただ「いろんな音楽」の一つとして、愛されたり、愛されなかったりするだけです。
そんな気持で作ったのが、この三つの曲です。「現代音楽」は、かなりの皮肉を込めて
書きましたが、CDのギタリストの松本吉夫さんは、美しく弾いて下さいました。
せっかく生まれてきた曲を皮肉っぽく弾くなんて、可哀相で、心優しい松本さんには、
とても出来なかったのでしょう。
“こーんな偉そうな音楽があるでしょ…と皮肉に弾いてほしい”という私の注文は、
“でも、これ、きれいよ”と却下されました。
曲と演奏者との間の、そういうコミュニケーションも、また有り。
かわいがってもらえて良かったね…と、私の「現代音楽」に言ってやりましょう。
(小曲集「ポケットの中から」解説より…少し書き換えました)
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★ 私の書いているのは、現在音楽です。
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子守歌 |
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おかあさんが子守歌をうたいます。
プロの声楽家ではないので、声が時々かすれます。
歌いながら眠りそうになって、ハッと目を覚ましたりします。
ニッパ椰子で葺いた屋根からスコールの名残りの水滴が、軒先のドラム缶に落ちて
音をたてます。おかあさんの子守歌は、つつましく揺れながらつづきます。
この曲は、雑音を交えて弾いてほしいと、私は松本さんに頼みました。
弦を押さえる音、放す音、ギタリストさんが普段は出さないように務めている音や、
わざわざ作った雑音を、なにげなく混ぜて、ツルツルピカピカでない音楽を作って
ほしかったのです。
(小曲集「ポケットの中から」解説より…少し書き換えました)
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★ “このギタリストはヘンな音を出して!”なんて、どうぞ思わないで下さい!
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タランテラ |
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踊ってみて下さい
え、タランテラを見たことがない?
かまいません ともかく激しく!
心の中に この曲を鳴らしながら!
人様にはお見せできないようなカッコウで良いのです
あなたの「なかみ」が気持よければ 見た目はどうでも良いのです
踊っているあなたと 私の曲がしっくりいっていれば
まずは成功 めでたし めでたし
踊りにくい曲だなあ、と思うのなら
なにかが間違っているのです
タランテラを習いに行く?
いや そんなことはいいから
ともかく踊ってごらんなさい
いい曲だなあ、 踊りやすいなあ、と思えるまで
あなたと 私の曲がすっかり仲良くなってしまうまで!
(小曲集「ポケットの中から」解説より…少し書き換えました)
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★ 楽曲分析というものがあります。
楽譜から、そこに書かれた音楽の設計図を読み起こす作業…と言いましょうか。
音楽を建築のようなものと考えるなら、これは作品を理解するのに、良い方法
かもしれません。
でも、もし音楽が、布のようなものだったら、どうでしょう?
和服は、中に人が入ることによって、平らな布が立像になります。
布に仕組まれた「設計」は、着てみなければ分かりません。
演奏家の多くは、新しい作品と出あった時、まず楽曲分析をします。
設計図を手に入れて、どういうふうに弾くかの手がかりにしようと考えるのです。
これは私にとって悲劇です。私の作品は、楽曲分析では分かりません。
着てみなければ設計の見えてこない音楽、頭だけで考えても分からない音楽、
体中をアンテナにして弾いてみて、初めて設計の見えてくる音楽なのです。
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むかしの唄 |
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三日間、ただただ潮の満ち干を見て暮らしたことがあります。
サワサワ、サワサワと昼も夜も同じ波の音のくりかえしの中で
茫然と過ごしながら少しも退屈しませんでした。
同じように「サワサワ」と聞こえても、入江や海底の地形によって、
そこを海水が通るときたてる波音は微妙に違ってくるのでしょう。
昨日と同じ場所を通っても、太陽も月も同じ場所にはありません。
気温や引力の角度や様々なものの変化に応じて、
波の音も少しづつ変化するのでしょう。
人は変わるけれど自然は変わらない…というような言い方は
違うと思いました。自然はいつも変化しています。
だから私たちは、自然の音の中で長い人生を過ごしながら、
自然の音が耳について気が狂いそうになったりしないのです。
古典的な形式に従って作曲する時は別として、
私は全く同じフレーズを繰り返すことを好みません。
私は、波の音のように自然な音楽を書きたいのですが、
自然に聞こえるためには、単純素朴に繰り返すより、
むしろ絶えず微妙に変化していなければならないと思うのです
そんなわけで、この小さな素朴な響きの曲にも、
やはり、同じようで同じでないフレーズが出てきます。
音楽を複雑にするためではありません。
ただ、自然に聞こえてほしかったのです。
(小曲集「ポケットの中から」解説より…少し書き換えました)
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★ かつて音楽は、生身の人間だけが演奏するものでした。
だから古典的な音楽にに於いては、「繰り返し」は、
同じ音を材料に微妙に違う音楽を作って下さい…という指示でした。
でも現代に於いては、「繰り返し」は下手をすると単なる再生、
さっきと同じ音楽の機械的な繰り返し…に成る可能性があります。
機械で音を作る場合はもちろんですが、そうでなくとも、
人間が機械的になってきてしまっていますから。
コンビニやリサイクルブックショップでは店員さんが、誰に言うともなく
同じ声色、同じ調子で、“いらっしゃいませ!…”と繰り返しています。
あんなことを人間に強制してはいけない!
自然破壊の極致です。
生きるために、機械のようになることを強制されながら、
自分の個性を守っていかなければならない今の若い人は、
ほんとうに可哀相です。
2010.9.17
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