関西と関東・橋渡し文化人類学


西

に生まれて西に住んで〜

東京阪神間 9頁目

「嫁ぐ

@A Daughter in Law
   「ふぞろいの林檎たち」から
Aとつぐ 

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関西と関東の違いを
37年間 関西に暮らした 東京っ子が
独特の角度から検証!




執筆者はこんな人








肝っ玉母さんみたいな友人がいます。
二世代同居で甲斐々々しくお年寄りのお世話をしていましたが、
久しぶりに会ったら、“ヨメ、卒業しちゃったぁ…”と言う。
お連れ合いの父上も母上も、天寿を全うされたそう。卒業ねぇ…
子育て卒業というのは聞いたことがあるけれど、ヨメも卒業するもんなんですね。



 @ A Daughter in Law  
ドーター(娘) イン(…に於ける) ロウ(法律) 

ところで、英語には「嫁」という言葉がない…らしい。
手元の和英辞典で「よめ」と引くと、次のような言葉が出てきた。

よめ 嫁(妻)a wife ; (花嫁)a bride; (息子の嫁) a daughter in law

橋田壽賀子さんのホームドラマなんかによく出てくる“うちのヨメが…”なんて
セリフ、あれを英語に訳そうとすると、どうなるのだろう。


日本語を英語に訳すとき、まず探さなければならないのが主語。
つまり、「これは、誰が言ってるのか」だ。仮に、少し古いが赤木春恵さん扮する
ところのお姑さんが、言うとしよう。


次に「誰のことを言っているか」だが、「ヨメ」には「妻」という意味もある。
話しているのが男性の場合、「ヨメ=my wife」ということも有りうるのだが、
赤木春恵さんが言うとすれば、まあそれは無いとして、この場合の「ヨメ」は
息子の連れ合いと考えるのが妥当だろう。


ところで、前から気になっていたのだが、この「うちの」というのは何だろう?
うちの娘、うちの主人、うちのヨメの「うちの」は、単純に訳せば「我が家の」と
なるのだけれど、「我が家の娘」「我が家の主人」「我が家の嫁」と並べてみると
古色蒼然、物々しくもイメージが、政略結婚の時代へ遡る。


それはともかく、赤木春恵さんのセリフを英語に訳すと、“私の義理の娘が”
または、“私の息子の妻が”となって、「嫁」のような一言で言えてしまう便利な
言葉は、ないらしい。

 “あんたも 我が家の義理の娘なんだからネ…”
 “あんたも 私の息子の妻なんだからネ…”

なんだか締まらない。


この伝でいくと、英訳にはかなりの困難が伴うのはないかと思われるセリフを、
1980〜90年代にかけて放映された山田太一原作・脚本のテレビドラマ
「ふぞろいの林檎たち」の中に見つけた。


舞台は本郷の小売酒屋、仲屋酒店。
嫁への不満を息子にぶつける姑・愛子(佐々木すみ江)のセリフが、それ。

息子・耕一は小林薫。なにしろ今から20数年前の収録だ。出演者全員、若い。
暗い眼差しと、寡黙な髭面で耕一を演じる小林薫は、三十代の初めだろうか。
ドラマの終わりで、母親と「林檎たち」を前に、“俺は幸子じゃなきゃ嫌なんだ
…そんなこと信じられねえかもしれねえが…そうなんだから仕様がねえ…”と
訥々と、しかし激しく感情を爆発させる場面は、心を打つ。


新潮社から出ている脚本から、愛子のセリフを抜粋する。

 “心臓が悪いのを隠して嫁に来て、一年足らずで入院して、
  子供はうめないなんて、そんな長男の嫁があるかい?”

 “サギにあったようなもんじゃないか”

 “離縁して当然だろう?”


こういうセリフは、your wife や my daughter in law では成り立たない。

wife は、husband と「病めるときも…」と誓って結ばれている。
daughter in law は、その「病めるときも…」によって派生した擬似血縁関係だ。
契約不履行を云々して離縁を迫るような関係では、有り得ない。


上記のセリフを英語的に言い換えると、次のようになろうか。

  彼女は、心臓が悪いのを隠して、あなたの妻となりました。
  そして結婚して一年足らずで入院して、子供がうめないと分かりました。
  子供をうめない女性が、私の最も年齢の高い息子の妻で有りうるでしょうか?

  あなたは詐欺師によって騙されたようなものではありませんか。

  あなたは彼女を離縁して当然です、そう思いませんか?


思うに、wife はサインをするときに、病んでいるかどうかを問題にされないし、
病んだからといって見放されることはないけれど、ヨメがハンコを押すときには
暗黙のうちに周囲から求められる条件があり、それに自分が合致しない場合は、
ときとして周囲の理解を得られないことも覚悟しなければならない…らしい。
そういえば、はるか上つ方にも、もれ承るご苦労が…。




本郷って、どこだかご存知ですか? 日本全国各地にある地名ですが、この場合は
東京都文京区本郷…東京大学本郷キャンパスのあるところで、関東です。
橋田壽賀子さんのホームドラマの舞台も、きちんと調べたわけではありませんが、
関東が多いような気がします。

“関西は古いでしょう!”って、それに比べて東京人は物の考え方が新しいように
言う人がいますが、そうかなあ?…そうとばかりは言えないんじゃないかなぁと、
思うことがチョクチョクあります。こういうセリフが例えドラマにせよ違和感なく
“そういう人も居るよなぁ…”と受け入れられたのでも分かるように、東京にも、
相当に古い考え方をする人たちは、関西と同じく、居ます。

特にヨメ…いや、婚姻についての問題となると…
これって「東と西」を越えちゃう問題かも。




 
A 



少し前の日本経済新聞のコラム「にほんごチェック」に、面白いことが書いてあった。
筆者は埼玉大学教授の山口仲美(やまぐち・なかみ)氏。専攻は日本語学。
一部を引用させていただく。


  「嫁ぐ」という言葉、実は昔はすごい意味を持っていた。
  平安時代末期の説話集『今昔物語集』に、よく見られるけれど、
  こんな風に用いられている。

  「経師(=写経師)、一人の女を見て、たちまちに愛欲の心をなし、
  淫(いん)盛りに発(おこ)して蹲(うずくま)りて女の背に付きて、
  衣をかかげて婚(とつ)ぐ」。

  訳さなくても意味はわかりますね。「婚ぐ」は「嫁ぐ」とも書く。
  つまり「嫁ぐ」は、「交接」するという生々しい意味!


ビックリして広辞苑を引いてみると、以下の如し。

  「嫁ぐ」 @人の妻となる。縁づく。嫁にゆく。夫婦となる。  A交合する。


いやはや、浅学にして、さりとは知らざりき。
してみると「嫁」とは、随分とセクシュアルな意味を持った呼び名ということになる。
交合するための家族…バース・コントロールの無かった昔の感覚を以ってすれば即ち、
「子孫を作るための要員」ということになろうか。

日本の人口を気になさる大臣さんが、女性の「生産性」にこだわるのも、むべなるかな。
生産性を発揮しなくなった女性を軽ろんずるような発言をなさる知事さんがおられるのも
日本古来の感覚からすれば、不思議はないのかもしれない。



少し前に、「ちゃんとちゃんとの味の素」というキャッチ・コピーがあった。
美味しいお料理を作りたかったら、忘れずに「ちゃんと」味の素を入れなさい…という
言葉の背後に、微かに独善的、脅迫的な雰囲気が感じられて、私は好きでなかった。

百歩ゆずって嫁が「子孫を作るための要員」だとして、それが皆「ちゃんと」子どもを
産まなければならないと考えるのは、どんなものだろうか。
味の素の一振りで、すべてのお料理を美味しくしようとするように、すべての女性に
「子孫を作るための要員」としての務めを、「ちゃんと」果たすよう望むとしたら、
それは、自然への畏敬の念に欠けていはしないだろうか。


百歩ゆずるのをやめて言えば、人は交接するためだけにカップルになるのではない。
人生の止まり木として、心の安らぎを求めて一緒に暮らしたくて結婚するカップルも、
現代には沢山いる。その結びつきが、直接は子どもを作ることにつながらない場合も
あるだろう。そうでなくとも、自然界に「100%」は無い。

しかし例えば、二十代で首から下の動きの自由を失って画家になられた星野富弘さんの
描かれる絵は、沢山の人に生きる力を与えている。そうして力づけられた人たちが生み
育てた子どもたちは、ある意味で、星野さんの子どもでもあると言えないだろうか。


年金という目の前の問題だけで「生み育てる」ということを考えていては、見えなくなる
ものがある。このような人間の本質に関わる事柄については、家を超え、国家を超えた
広々とした視野で、ものを考えるべきではないだろうか。



数年前に藤沢周平原作のTVドラマ「蝉しぐれ」を見た。後で市川染五郎主演で映画も
作られたが、私はNHKの金曜時代劇のほうが好きで、ビデオも持っている。

冒頭から間もないあたりに、主人公・牧文四郎の家の前の川原の場面がある。
少年・文四郎と、父・牧助左衛門が登場して、草笛光子のナレーションが入る。


  “文四郎の父、牧助左衛門は義理の父でした。
   つまり文四郎は、牧家の養子でした。
   この時代、武士は長男が家を継ぎ、次男三男は
   跡継ぎのない家に養子にゆくのが、ごく普通のことでした”



文四郎は父を尊敬している。実の父の妹、つまり叔母にあたる血のつながる母よりも、
血はつながらないが寡黙で男らしい父を尊敬し慕って、彼の志を継いで生きようとする。

家の存続が最大の課題であった封建時代に、「ごく普通」に養子が行われていたのは、
当然と言えば当然かもしれないけれど、このナレーションは草笛光子の優しい語り口と
相まって、私に、自然への畏敬を知る昔の人々の「優しい知恵」を感じさせる。

主演の内野聖陽…、水野真紀も、いいんですよねぇ。
とつぐことの美しさと哀れを、しみじみと感じさせられるドラマです。




話がアッチコッチになって、“どないなっとんのヤ?”と、マゴつかれる向きも
おありだったかと存じますが、まあ、こういう自家製手前味噌みたいな場です、
どうぞご寛恕のほど、おん願い奉ります。





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