関西と関東・橋渡し文化人類学


西

に生まれて西に住んで〜

東京阪神間  4頁目

「こ

@コーヒーとパフェ
Aレモンティー
Bコンサート

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関西と関東の違いを
37年間 関西に暮らした 東京っ子が
独特の角度から検証!





執筆者はこんな人







 前の項で書かなかったことが一つある。
 江戸川乱歩は一時期、大阪の新聞社で働いていた。ひょっとして怪人二十面相改め
 四十面相には、その時の上司のイメージが 投影されていはしないだろうか?
 若き乱歩が一生懸命に書いた原稿を差し出す度に、上司の、関西人の編集長とかが、
 「はっはっは、○○クン」と笑って 書き直しを命じたのではないか…。
 何の根拠も無いが、どうもそんな気がしてならない。



 @ 
コーヒーパフェ

初めて関西に行ったのは、十八才の時だった。私は喫茶店で、背広を着た中年の男性が、
向き合ってパフェを食べているのを見て、仰天した。東京では絶対に在りえない光景だ。
男性が喫茶店で注文するのはコーヒー。少し軟派で紅茶。たまに暑いからアイスクリーム
ということはあっても、生クリームとフルーツで飾った可愛らしくて甘いパフェを食べる
男性は、東京では、まず見なかった。

最近は多少様子が変わった。ケーキセットくらいは、男性一人でも普通に注文する。
二十代の男の子と喫茶店に入って“何にする?”と聞いたら、“クランベリージュース”
と言った。選択肢も広がっている。しかし、中年の男性が二人で向き合ってパフェという
のは、今も東京では、ちょっと珍しい。

“なんでやねん?”
友人は不思議がる。“好きなもん食べたらエエやないか…何がワルイねん?”
関西は古いと言われるが、こういう点では、関西の男性は融通無碍、こだわらない。
“どこがフルイねん?”と言たくなる。関西の男性は、カッコを気にしない。どこへでも
付いて来てくれるから、デイトすると楽しい…たぶん。

しかし東京で生まれ育った私は、東男のこだわりにも、心を惹かれる。
男らしさというイメージにこだわってパフェを食べようとしないのは、ちょっと無理する
「タイトな美学」だ。東京の男性は無理してもカッコよく振舞おうとする。その努力は、
好もしく、いじらしく、でも…ときに少し痛々しい。



こだわらないで自由に振舞う関西の男性の周囲にには、
それを支える優しい?女性たちの存在が…なんていうお話は、また先で。






 A 
レモンティー

「エエシのボン」たちとお茶を飲んだ。友人のお仲間だ。
「エエシ」は「良い家」、「ボン=ボンボン」で「坊ちゃん」の意だが、幼い子どもだけ
でなく成人男性も指す。良いとはどんな家かと言うと難しくなるが、ここでは取り敢えず
ティータイムのテーブルに何気なく、ジノリやウェッジウッドのティーセットが出てくる
ような家と思って頂きたい。友人は関西の坊ちゃん学校の出身で、お仲間には裕福な家の
御子息が多い。


紅茶にレモンを入れるのは、文明開化の頃の日本人の発明らしい…という話から、
スライスされたレモンの話になった。

“そら、厚いほうがエエわナ”とボンの一人が言う。
“あら、あれは香りづけですもの。薄くなくちゃ…”と私。

“そうカモしれんけどナ、喫茶店に入るやろ、
 580円なり280円なり払うわナ…、
 出てきたレモンが薄〜ぅかったら、ナンやぁと思うやんか…
 気持の問題や、厚い方がエエ”

どうも、エエシのボンの発言とも思えない。


菜切り包丁でポンと切ったような分厚いレモンも、280円の紅茶なら我慢しよう。
580円払ってそれでは、“お金を出した甲斐が無い…”と、東京人はガッカリする。
分厚いレモンをドボンと入れては、せっかくの紅茶の味が落ちる。第一、そんなレモンを
出すような神経では、本体の紅茶だってデリケートな淹れ方をしているはずがない…と、
私は言うのだが、ボンたちは“ほでも、厚い方がエエ。サービス精神や”と、譲らない。

“アイソないわナ”と、友人がうなづく。何となく雰囲気がジノリやウェッジウッドから
遠ざかって、まったりしてきた。ボンたちが喫茶店のレモンに求めているのは、商う人の
「情」らしい。払った金額に対して、思いがけず出された厚くスライスされたレモンから
関西人は、店主の歓迎のメッセージを読み取って喜ぶ。人懐こい関西人にとって「情」は
厚いほど嬉しい。


喫茶店で出される透き通るように薄いレモンは「プロの技術の表れ」と東京人は考える。
レモンティーくらい、我が家でも飲める。それを、お金を出して店で飲むなら、プラス
アルファがほしい。慌しい毎日を、しばし忘れさせてくれる空間、“我が家の切れない
包丁では、こうはいかない…”と納得できるような、薄く美しくスライスされたレモン。
東京人が求めるのは、技術と雰囲気だ。

“薄いレモンが二枚ついてるのってあるじゃない。あれと分厚いレモン一枚と、
 どっちがいい?”と聞いたら、ボンたちは考え込んだ。


関西人はケチだ…と、面白半分に言われることがあるが、ケチとは思わない。それは事実
ではない。むしろ東京人よりも、金ばなれが良いのではないかと思うこともある。

確かに、お金に対する「こだわり」は、東京人よりも強いかもしれない。けれどそれは、
東京人が考えるような「お金そのものに対するこだわり」とは、違う気がする。
歴史を重ねるにつれて言葉に複雑なイメージが加わるように、長い間商業の中心であった
関西に於いて、お金は東京に於いてより、もっともっと複雑なイメージを持つに至ったの
ではないか。レモンの厚さに「情」を見るように、関西人はお金の背後に様々なイメージ
を見て、それにこだわるのではないかと、私は考えている。


“まけてェな”
“せっしょうな…これでギリギリでんがな”

値切って買うのは関西人の常識…というより、定番のコミュニケイションだったが、
世の中が忙しくなった最近は、様子が変わってきた。これからどうなるのかな…と
思ったあたりで東京に引っ越してしまったが、その後どうなったのだろう?






 B コンサート


1963年10月、東京の日生劇場の柿落とし「ベルリン・ドイツ・オペラ」の初日は、
ちょっとした騒ぎになった。主催者から“ご来場のお客様はフォーマルウェアで、お越し
下さい”と、「ご案内」が出されたのだ。戦後の焼け跡から18年、暮らしはやっと豊か
になる途中。招待された有名人たちも、多くは、タキシードもイブニングドレスも持って
いなくて、慌てて新調した。
雑誌のグラビアに載った小澤征爾夫妻、タキシード姿の小澤征爾と、夫人で元ファッショ
ンモデルの入江美樹の、垢抜けしたイブニングドレス姿が、目に残っている。

初日ではないけれど、何の間違いか我が家に一枚、同じベルリン・オペラの一連の公演の
S席のチケットが舞い降りた。代表して私が行かせてもらうことになり、一張羅のドレス
に高いヒールを履いて出かけたまでは良かった。

建物に入ると、広いロビーの床は白大理石。向こうに赤い絨毯の敷かれた階段が見える。
足を踏み出して、滑りそうになった。当時の最新流行で、細いヒールの一番先の床に着く
部分に、8ミリ四方くらいの小さな金属のカカトが打ち付けてある。それが、真新しい
白大理石の硬い床に当たって跳ね返って重心が定まらない。はるか彼方の赤い絨毯まで、
海のように広いロビーを、ツルツル滑るヒールでソロソロと横切りながら、エスコートの
無いフォーマルウェアの悲哀を、私は肝に刻んだ。


話は、1990年代に飛ぶ。
関西に住んでいた私は、東京から引っ越して来た知り合いに頼まれて、
小学生の子どもを預かってコンサートに連れていった。

“ごはん食べさせる時間ないから、パン持ってかせるわ。そのへんで食べさせて!”と、
子どもの親に言われて、“マイッタなぁ”と思った。まぁ少々変わった所のある人では
あるけれど、彼女は東京のお嬢さん学校の出で、コンサートは行き慣れているはずだ。
子どもは会場に直接来ることになっている。“そのへん”と言ったって、いったいどこで
食べさせろと言うのだろう。

おしるしほどのフリルのついた簡素な木綿のドレスで、菓子パンの紙袋と牛乳のパックを
持って、子どもは現れた。ラメ入りのドレスと、スパンコールの飾りつきのヒールの行き
交うロビーの片隅に、小柄なその子を隠すように座らせて、私は身を縮めて、菓子パンと
牛乳が無くなるのを待った。“…ったく!”


楽しみにしていたコンサートだったので、この件については長らく、思い出しては、執念
深くウラんでいたのだが、数年前、再び東京に住むようになって、誤解が解けた。


引越しも一段落して、私は久しぶりにコンサートに出かけた。
ロビーにスタンドがあって、軽い飲み物やサンドイッチを食べられるのは、最近の傾向で
関西も同じだ。ビックリしたのは、コンビニ食品や、おにぎりを持ち込んで食べている人
が、あちこちに見られることだ。服装も地味というより、ほとんど粗末で、ジャンパーを
着たオジサン風、茶ともグレーともつかない色の上着の女性達、ラメやスパンコールは、
ゼロではないが稀で、関西ナイズされた私の目から見ると「お金の無い人が、仕事帰りに
集まった」みたいに見える。菓子パンの袋も牛乳パックも、この中なら常識の範囲だ。

しばらくは妙な気がしたが、そのうちに記憶が蘇った。日生劇場のオペラや、東宝劇場の
宝塚歌劇公演は別格。普通のコンサートに来る人たちは、東京では昔から地味だった。
アルバイトで学資を稼いでいる芸大の同級生が、着たきり雀のヨレヨレの背広でロビーに
いても、悪く目立つようなこともなかった。「コンサートに行くのは、音楽を聴くため」
という東京人の昔からの実質主義は、世の中が豊かになっても変わらなかったのだ。


関西のコンサート会場はカラフルだ。女性客は、会場に華を添えるのを楽しんでいるよう
に見える。その中に熱心な音楽愛好家もプロの音楽家もいるのは、もちろん関西も東京も
変わらないけれど、あの陽気な華やかさ、来る人たちの楽しげな装いぶりを思い出すと、
どうも関西に於けるコンサートは、根っこの部分で、物見遊山の範疇に入るのではないか
と、私は考えてしまう。


音楽を聴くだけなら、東京風の方がシンプルで良いだろう。
関西の楽しみ方は「参加型」かもしれない。
どちらも、それぞれに…結構ではあるけれど、軍資金に制約のある私には、
東京風が何とも有り難い。


“シンプルで有り難い”と話したら、ヨーロッパのコンサートに馴染んだ友人に、
“う〜ん…”と疑義を呈された。装うのは“さぁ音楽を聴こう!”という、いわば
身支度ならぬ心の支度の表れだと言う。それ無しにノンベンダラリとコンサートに
現れるのは如何なものかと、感じることがあるらしい。



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