関西と関東・橋渡し文化人類学


西

に生まれて西に住んで〜

東京阪神間  3頁目

う」

@笑って許して…
A笑ってもらう
B笑われる嗤われる



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 @ 
笑って許して…

少し前にはやった歌に「笑って許して」というのがある。関西的な歌詞だなと思ったら
作詞は阿久悠で兵庫県の生まれ、高校までを関西文化圏内の淡路島で過ごした人だった。

  ♪ 笑って〜ゆるして…
      …命ときめ 愛しているの 信じてほしい〜 ♪


東と西、どちらにも「笑って許す」という表現はある。「ちょっとした誤ちと見なして、
深く追求せずに許す」という意味も同じだが、この言葉の中にある気持の動きをイメージ
してみると、東と西では微妙に違う。

許すことは真剣な行為だ。東京人は、だから、笑いながら許すことは出来ない。彼はまず
真面目に考えるだろう。そして許すことを決断し、それから笑ってみせるだろう。
許すべきか…許さざるべきか…煩悶の末に得た結論には、多少の無理があったりもする。
しかしもう決めたことだ…東京人の笑いには、いささか痩せ我慢が感じられることがある
かもしれない。

関西人にとっても、許すことが真剣な行為であることは変わりない。彼はまず、肩の力を
抜いて、笑おうとするだろう。もし笑えたなら、「ま、いいか」と思えたわけで、許すも
許さないもない。「もう、ええがな」になる。
許すべきか許ざるべきか…関西人が考えるのは、「笑えなかった」ときだ。

この歌の場合、「笑って…」と言っているのが許しを乞う側なのが、関西的だ。
「命と決め、愛しているの、信じてほしい」と言うなら、真顔で話し合うのがスジだろう
と、東京人は考える。こちらは真剣に悩んでいるのに、詫びを言う側が「笑って許して」
とは、不真面目ではないか。

問題が真剣であればあるほど、リラックスして対応するべく、関西人は笑おうとする。
笑うと心と体が丸ごと揺れる。軟らかに揺れる丸ごとの体は、良いアンテナのような働き
をする。「笑って〜ゆるして…」は、「気持を解いて下さい」という意味だと言ったら、
この歌の持つ関西的なニュアンスが、東京の人にも通じるだろうか。



 A 
笑ってもらう

「笑ってもらう」という言い方が関西にある。
東京でも、落語家が「笑っていただきます」などと言うことがあるが、あれは「笑わせて
あげます」というのを丁寧に言っているので、ちょっと違う。落語家は「笑わせる」人、
観客は「笑わせてもらう」人であって、「笑ってもらう」人は、この場合存在しない。

幼い頃読んだ絵本に、「お月さまとウサギ」というのがあった。
森の動物が集まって皆でお月さまに供え物をしようということになる。それぞれ工夫して
見つけたものを、木の切り株の祭壇にお供えするのだが、ウサギは何も見つけられない。
困った末に、ウサギは切り株の祭壇の上にゴロンと横たわる。そして、お月さまに言う。
「おつきさま、わたしを たべてください」

インドの説話に似た話があって、それを子ども向けに書きかえたものだったらしい。
自らを供え物に差し出すウサギの健気さは、幼い私の心に強い印象を残した。

人生に欠かせない笑いを作り出すために、関西人は我が身を差し出す。
自分の弱点についての他愛ない告白、「アホやなぁ…」「なんでヤ…」と言われるような
失敗談、聞く人が一緒に笑えるような話なら、何でも良い。自分を中心に明るく座が盛り
上がるとき、関西人はとても幸せそうだ。彼らは「笑ってもらう」のが好きだ。
自らを供え物に差し出す関西人の健気さは、説話のウサギに、ちょっと似ている。



 B 
笑われる
嗤われる

「笑ってもらう」という文化は、東京には無い。
笑ってもらおうと思っていないのに笑われるのだから、ショックだ。笑われると東京人は
狼狽する。「私は何か笑われるようなことをしたのだろうか?」失策をした…と東京人は
考える。「笑いを提供して世の中を明るくした」とは思わない…思えない。

東京人にとって、人に笑われるほど悲しいことはない。
世の中を楽しくするためには我が身を差し出すことも辞さない関西人と違って、エレベー
ターの中で黙って上を向いている東京人は、「人に迷惑をかける」ことを怖れる。人前で
自分の至らなさを曝け出したり、相応しくない行動をして笑われることは、とりも直さず
周囲に御迷惑をおかけすることなのであって、社会人として失格、重大な失策だ。東京人
にとっては「笑われる=嗤われる」で、そんなことが無いように無いように、彼らは一生
懸命に努力する。


関西には「エエカッコシィ」という言葉がある。「エエカッコ=良い格好」で、ちなみに
関西では「カッコイー!」と言う代わりに、「カッコエェなぁ〜」と言う。「シィ」は
「する」の変化形。「ィ」は、Pianist(ピアノを弾く人)という場合の「ist」だから
「する人」と訳す。中国語風に当て字で書けば「良格好士」。「カッコ良く見てもらいた
がる人」とでも言おうか。

友人が奥さんと電車に乗った。友人は関西人、奥さんは東京人だ。
電車は少し混んでいた。立っている友人の目の前に、奥さんの見慣れたスーツがある。
柔らかい関西弁で友人が言う。「お前、それしか無いんか…だいぶ草臥れてきたナァ…」
奥さんのことではない、スーツのことだ。

「シッ!」奥さんが囁く。「こんなトコで、そんなコト言わないで…」声が尖っている。
「なんでやねん」と友人が言う。「エエカッコシィやなぁ…」

別に、貧乏で新しいスーツが買えないわけではない。「着る物にお金を使いたくないの」
と一着を大切に着ているうちに、年月が経って服が草臥れてきた。自然の成り行きで、
恥じ入って隠さねばならないような話ではない。「カッコつけることナイやないか…」と
いうわけだ。

「電車の中っていうのがねぇ…」と私は教えてあげる。
一着きりであろうが、少々草臥れていようが、手入れをして胸を張って着ていれば、着る
ものに地味な東京で、気がつく人は少ない。気がついたとしても、個人の志向を尊重する
東京人は、そっとしておいてくれるのに、よりによって電車の中で、我が家の事情を発表
しないでも…と、奥さんは身も世も無かったに違いない。

いろいろと事情はあっても、人前では凛然としているのが、東京人の美学だ。もし彼女が
関西人だったら「そやねん…こうて(買って)くれる〜?」とか言って、ご亭主に新しい
スーツを一着、買わせちゃったかもしれない…美学にこだわると損をする。


関西人も「嗤われる」のは嫌いだ。しかし関西では「笑われる」から「嗤われる」までの
距離がタップリあって、大概の事は「笑う」「笑われる」の許容範囲に納まってしまう。
嗤われても、笑ってもらったことにして、角を立てずに受け流してしまうという知恵を、
関西人は持っているのかもしれない。

「笑う門には福来たる」が関西人の哲学だ。それは良いけれど台風のニュースを見ながら
「エライコッチャなぁ…はっはっはぁ〜」などと笑っていたりする。哲学も身につき過ぎ
ると問題だ。奥さんは不謹慎だと怒るが、それは違う。友人は常識ある心優しい紳士だ。
折れた傘を持って走る人を嗤ったりはしない。


インドネシアの仮面劇をテレビで見たことがある。
登場人物が全て、セリフにかかる前に、まず笑う。

   「はっはっはっはぁ〜、…………?」
   「はっはっはっはぁ〜、…………!」


中国の古い時代を描いたドラマにも、同じような場面があった。
皇帝とおぼしき人の前に進み出て意見を述べる重臣が、口を開くと、まず笑う。

   「呵々々々々々、…………!」
   「呵々々々々々、…………!!!」

可笑しいからではなく、一つの儀式のようだった。
嘗て笑いは、邪気を払うための神聖な儀式だったのではないか。江戸川乱歩の探偵小説の
登場人物・怪人四十面相の有名なセリフ、「はっはっはっ、明智君…」も、もしかすると
歴史の彼方の遠い記憶に根ざしているのかもしれない。




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