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「♪」マークのついた作品は CDが発売されています。
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第二歩 ♪ 組曲・こどものとき ♪ 友だち〜変奏曲の形をかりて 月謝袋 ソナチネ |
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第二歩 |
こどものとき | |
ギター独奏 13分30秒 1991年 |
7曲からなる組曲。 ・一人ぼっち ・おもしろいお話 ・風 ・とかげ ・矛盾 ・大きな大きな水たまり ・夕暮れ 私は、このとき初めてギターの曲を書いた。 当時、私は関西に住んでいた。 上京してギタリストさんからレクチャーを受けている最中に、夫の母が倒れた。 ギターは、弾けない人間にとって、理解の難しい楽器だ。 手掛かりの掴めぬまま、中断して帰って、そのまま看病に入れば、 ギターの曲は書けず、作曲家として復帰する機会を失うかもしれない。 夫には兄妹がいて、看病する人間は私だけではなかった。 必要な最少の知識を仕入れるために、私は何日間か、猶予をもらった。 夫の母は半年入院して、それから自宅で2年療養の後、亡くなった。 いつ書けなくなるか分からないという思いに追われて、私は結果的に、 看病のローテーションの中で書いた幾つかの曲によって、音楽の世界に復帰した。 * * * 私はこの曲で、子どものときに感じていたことを、音にしたのだけれど、 子どもが感じることが、子どもっぽいとは限らない。 靴にサイズがあるように、悩みにも、適当なサイズというものが、 子どもの場合、あるのではないか…私は大きすぎる靴をはいた子どもだった。 音で描くことは出来ても、言葉にするのは難しい。 この曲には、幼い日の哀しみが詰まっている。 関連エッセイ…「成蹊のこと」 |
友だち 変奏曲の形を かりて |
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ギター独奏 10分 1991年 |
友だちを数えると、五指に満たなかった。 その頃と今と、違っていたのは「友だち」の定義だ。 かたわらに居る人の、持ちあぐねている荷物を持ってあげるのが思いやり、 弱い人を支えてあげるのが、温かな人間だと教えられて、私は育った。 それは丸きりの間違いでは無いかもしれない。 けれど、その前に人は、 自分の荷物を、自分で持って、 自分の足で歩くことを憶えなければならない。 互いに支えあうのが友だちだと、私は思っていた。 けれど、足元の定まらない人間が支えあおうとしても、もたれあうだけだ。 尽くしても尽くしても、 甘えて甘えても、いつも満たされなかった。 再び作曲を始めた時、私は、その輪から抜け出した。 「友だち」とは、何だろう? 新しい定義を私は探さなければならなかった。 心に動く何かに、こだわって、捉えて、手繰ってゆくと、 それが音になって、この変奏曲になった。 * * * 友だちとは、 私の心にかかる人、 私を心にかけてくれる人。 そんなふうに、いま私は思っている。 |
月謝袋 | |
作曲に復帰したのは44歳のとき。 書けないと思い込んでいた間、私は自宅でピアノを教えていた。 話を、その頃に戻す。 三十代半ば、同じ宝塚の中で、山を少し下った所に住まいを移した。 それまでは、上下二所帯で一軒の借家だったが、今度は前後に並んだ二戸一だ。 前が広い駐車場、片側は大家さんの邸宅で、反対側の隣りとの間に路地がある。 壁で繋がる裏の家から遠い部屋をレッスン室にして、防音カーテンを付けるなどして、 前よりは気兼ねなくピアノが弾けるようになった。 生徒は子どもが多い。よく月謝を持ってくるのを忘れる。 親に言っても良いのだけれど、私は大抵のことは子どもと話すことにしていた。 “あ、お月謝もってきた?” “ウ…わすれた〜” “う〜ん、こんど持ってきてネ” というようなやりとりをする。 あるとき、3週間つづけて忘れてきた子がいた。 一年生の、ノンビリした女の子だ。 “あ、またわすれた”というので、 “こんどは持ってきてね”と言って、送り出しぎわに、もう一言、 “持ってきてくれないと、センセイごはん食べられなくなっちゃうヨ〜”と言った。 家の前の駐車場を出たところに、川がある。 両岸が道路で、川上と川下に橋があり、車が環状に往き来する。 コンクリートの護岸に堆積した土に、月見草やらハトムギやら生えていて、 ガードレールに沿って散歩する人もいた。 レッスンを終えてしばらくして、私は道路ぎわの隣家に回覧板を届けに行った。 ベルを鳴らしたが居ない。かさばる回覧板をポストに突っ込んで帰りかけた。 “センセ〜イ!” 甲高い声が川下から、こちらに近づいてくる。 振り向くと向こう岸の道路を、車が走ってくるのが見えた。 車の窓から子どもの手が突き出されて、茶色の封筒がヒラヒラと揺れている。 月謝袋の下で、オカッパ頭を斜めにして、子どもが叫んでいた。 なんと言ったらよいのだろう。 書けないでいる間にも、沢山の幸せがあった。 |
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ソナチネ (ギターのための |
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ギター独奏 4分 1991年 |
九月、十月、十一月… 深まり行く秋の風を描いた、ギターのためのソナチネ。 関西の土は白い。 宝塚に住んで、そう思った。 関東の、私が育ったあたりは土が黒い。 土のアクを吸うのか、木の葉の緑も黒みを帯びている。 大谷石の塀なども、新しい内は白いが、月日を経ると暗い色になる。 関西の自然は、明るい。 春はいつも、ふわぁっと包むように現れる。 夏はアイロンを当てたように暑いけれど、秋は優しくコトンコトンと寒くなる。 関東平野の自然は、台風→運動会→木枯らし→冬!…と一直線だが、 宝塚の秋は、一月ずつ、立ち止まって数えながら深まってゆく。 * * * この曲を作ったときのことは、同じサイトの、 「2000年までの私」の中の、“………”にも書いた。 そのころ私は、後に仕事場にしたドングリの垣根の二戸一の、 二階が三畳と六畳、下が六畳と四畳半に狭い台所のついた借家に、 親子三人、グランドピアノと一緒に住んでいた。 音楽高校に進んだ娘が、期末試験を前に練習するラベルの「水の戯れ」が、 一階の四畳半のレッスン室の、薄い天井とベニヤの壁を通して聞こえる中、 私は二階の三畳で、足踏みオルガンにしがみついて、弦楽四重奏を作曲した。 * * * “そんな暮らしをしていては、イメージが枯渇する”と言われた。 けれど、コトンコトンと深まる秋の風の中で、赤マンマの実がふくらみ、 ネコじゃらしの青い穂が、そそけたように白くなってゆくのを見ていると、 そこに小さな宇宙があって、自分の心が、その宇宙一杯に広がるような気がして、 行動半径の狭いことも、作曲する上での致命傷には、ならないように思えた。 行動半径が広ければ、イメージの広がる可能性も広がるだろう。 だが、それは可能性にすぎない。芭蕉は外国へは行かなかった。 |
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堀江はるよ公式サイト・エッセイで描く作曲家の世界 <カタツムリの独り言>
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