〜阪神大震災を越えて〜

堀江はるよ


堀江はるよのエッセイの頁「カタツムリの独り言」もお楽しみ下さい。





かたつむり出版 製作

小曲集「はるのむこうへ」巻末エッセイ

「仕事場より」





もくじ 

はるのむこうへ 親切なアリさん 地殻変動 “………” おにぎり 

恩赦・かたつむり
 紙芝居 風に乗って そえがき






“作曲者のことを、もう少し知りたい”と思われる方のために





小曲集「はるのむこうへ」に添えて


この曲を書いた時期は、阪神大震災と重なっています。

作曲をしていて、不思議に思うことはいろいろありますが、

暗い気持ちのときに明るい曲を書いてしまうのも、その一つです。

人が気晴らしに遊びに行くように、心も遊びにゆくのでしょう。










T はるのむこうへ


何か元気の出る曲を書かなければ……”。

しきりとそんな気がして、私はこの曲集の1曲目を書き始めた。

1994年の暮れである。阪神大震災のあった翌年1月17日にはメロディーは、ほぼ書けて

いて、ただイメージどおりにならない伴奏のピアノの音を、探しているところだった。

震災当日、私は西宮の自宅にいた。阪急電車は不通。仕事場の様子がわからない。

宝塚にある仕事場は、二戸一(ニコイチ)と言われる連棟の貸家で、古い。地域的に見ても

とても無事とは思えなかった。

ごく一般的なマンションの西宮の自宅では、音を出す仕事はできない。別に仕事場を

持っていてこそ、私の音楽活動は成り立っている。たまたま幸運が重なって持つことが

できた今の仕事場を失ったら、もう一度同じようなものを借りて、作曲家としての生活を

続けることは、いろいろな状況から見て不可能だった。

たくさんの人が生きるか死ぬかで苦しんでいる時に、生きていて、住まいがあって、

その上、仕事場がどうこう言うのは申し訳ない。そう思いながらも、心配で居ても立っても

いられなかった。いろいろなことを乗り越えて、やっとここまできたのに、いままた

作曲の出来ない状態に追い込まれることを考えると、生きながら死ぬような気がした。


一週間後、思いがけず無事だった仕事場で、私は曲のつづきを書き始めた。

世の中全体が助け合うことに一生懸命なときに、ひとり五線紙に音符を書きつけている

のは身勝手がすぎる気がしたけれど、では自分に何ができるのかと考えてみると、

やはり音楽しかなかった。他のことは、もっと上手な人がたくさんいる。

私の音楽は、私にしか作れない。


では、そうして作った音楽が何の役に立つのか。

そう聞かれたら、私には答える言葉がない。パンのように目に見えて人を助けるものを

作っているのではないことに、私はいつも引け目を感じている。

母親が自分の生んだ子の存在価値を信じるように、私は自分の作った音楽が、この世に

あるほうが良いと思えてならないのだけれど、それが勝手な思い込みでないという証明は、

自分ではできない。ともかく、震災直後の混乱の中で、私は五線紙にしがみつくようにして

一曲目を書き上げた。




作曲しているときの私は、あの幼いときに読んだ童話のマッチ売りの少女になって、

マッチをすっているのかもしれない。


“マッチの火は めらめらと燃え上がり

少女は あたたかい暖炉のそばに

すわっているような気持ちになりました”


冷たい雪の街角で、マッチ売りの少女は、まぼろしを見つづけるために一本また一本と

マッチをすり、すりつくして、幸せな気持ちで死んでゆく。


私は決して、冷たい雪の街角のような境遇にいるわけではない。

けれど生きていれば出合うさまざまな出来事の中で、どうしようもなく辛いときにも、

五線紙に向かっているとすべてを忘れてしまう。湿ったマッチを何度もすりなおして

いるような時があっても、それは苦しいだけで辛いことではなく、ポッと炎が上がれば

有頂天で、手を打って跳び上がるほど嬉しく、幸せで一杯の気持になってしまう。

ただ、それが“どんなときでも”なのは、ちょっと申し訳なく、ヤマイ(病い)とも

業とも何と言ってよいのかわからない。


題をつけるときになって、まず“春”という言葉が心にうかんだ。

けれど私の乏しい人生経験の中にさえ、満開の桜も幻のようにしか見えない辛い春が何度も

あった。まして震災で身内を亡くされた方々にとって、この冬のすぐ次につづく春は、

希望にも慰めにもならないのではないだろうか。どうかして、そういう方々の思いを

未来へ向けることは出来ないだろうかと、話しかける言葉を探すようにして見つけたのが、

この「はるのむこうへ」という題だった。

“元気の出る曲”と称してあちこちに送ったところ、神戸で被災して広島に行かれた

ギタリストさんが、チャリティー・コンサートに役立ててくださった。


いまこうして小曲集のための文章を書いていると、夢を見ているような気がする。

こんなにゆっくりした気持で出版の用意をする日が来るとは、あのときは思えなかった。

命も住まいも無事だったのに、たくさんの方が手を貸してくださって、私はただ生きて

いるだけでなく、作曲家としても生きつづけることができた。

私は恵まれていた。それでも、世の中が混乱している時に、勤勉なアリの群れの中で

キリギリスとしての命を守ろうとするのは、ずいぶんと気の重いことだった。

他のキリギリスたちは、どうやって生きのびたのだろう。










U 親切なアリさん


日本で知られているアリとキリギリスの寓話は、もとのイソップでは、アリとセミの話に

なっているそうだ。けれど私の心のビデオには、昔の講談社の絵本のキリギリスの絵が、

焼きついてしまっているので、お許し願って“キリギリス”で通させていただく。


夏のあいだヴァイオリンを弾いていたキリギリスは、のんき者の見本のように言われる

けれど、私はそうは思わない。キリギリスも、冬が来ることは知っている。冬には死ぬ覚悟で

ヴァイオリンを弾きつづけるキリギリスを、どうして人は、のんき者などと言うのだろう。

アリにはアリの、キリギリスにはキリギリスの、生き方というよりも、もっとやむを

得ない“個性”がある。


アンデルセンとイソップが一緒になったような話になってしまうけれど、私はついこの間

まで、自分をアリだと思っていた。真面目にアリをしようと思えば思うほど、まわりの

人たちから見れば変だったらしい。自分でもたまらなく辛かった。長いブランクを経て

音楽の世界に戻ったら、何とも呼吸が楽で、“ああ、私はキリギリスだったのだ!”と

目の前が開けたような気がした。キリギリスはキリギリスらしくしか生きられない。

ただ私の場合は、アリさんが1ぴき、一緒に暮らして冬の心配を手伝ってくれている。








V 地殻変動


震災で、地面の次に動いたのは、人間関係であったような気がする。

決まった時間にそこに居なければならないという約束事がなくなって、なんとなく皆が

少しずつ、糸の切れた凧のようになった。普段なら決して出会わないような人に出会い、

会った途端に一つの皿からものを食べるようなお付き合いが、不自然でなくあった。地位や

立場をぴったりと着こんでそれらしく行動していた人たちが、足もとから揺すられて、

素裸の人間の気持を取り戻した一瞬があった。

そしてそれから徐々に、みんな元の生活に戻っていった。


いろいろな人に出会い、一瞬だけれど深くつきあって、見たものの中には、美しいものも

汚いものもある。そのときは泣いたり笑ったり怒ったりしたけれど、なんと様々な人間が

いることだろう。いま離れたところに立って見れば面白くもいとおしく、あれは、めったに

ないカラフルな体験だった。

人は小宇宙だ。みんな自分を芯にして回っている。客観的に見て…などと、よく言うけれど、

誰も、物事を客観的に見ることなど出来はしない。自分が“ほかの人みたいじゃない”のは

当り前のことなのだと、長年の迷いがふっきれた。









W “ ……… ”


“ドングリの垣根の家です”

仕事場に来てくださる方に、私はそう説明する。良く茂って、厚みがあって心地好い。

梅の木もある。書きはじめると夢中で、仕事場にいる時間は飛ぶように過ぎてしまうから、

手入れが悪くて、ご近所に申し訳ない。ごくたまに、アリさんが来て刈り込んでくれる。


この家で、私は子供を育て、書けない人から書く人になった。数年前に購入した西宮の

住まいは集合住宅なので、音を出す仕事を持ち込むのはためらわれて、現在は“仕事場は

宝塚、愛の巣は西宮”などと称して、リュックを背負って毎日往復している。


私は外国に行ったことがない。日本にばかりいてはイメージが枯渇してしまうだろうと

心配してくれる人がいた。そう言われればそんな気もするけれど、だからといって行けるように

なるものでもない。“枯渇するかなぁ…”と、ドングリの垣根の下に生えてる赤マンマや

ネコジャラシの穂を見ていたら、ギターの為のソナチネの、秋の風のテーマが見つかった。

“まだいけるやん”と、ひとりでVサインした。


私は東京の生まれだ。阿佐ケ谷の家から、武蔵野の面影を残す吉祥寺の学校に、中学まで

通った。商店街を駅まで歩いて中央線で登校すれば、“町”を満喫することになるけれど、

五日市街道を東田町から吉祥寺までバスに乗ると、田んぼに川に畑、遠くには山並み、

昔の街道をしのばせる、道の暗くなるような大木が見られた。高校は井の頭線沿いの駒場、

大学は上野公園の中。学校はいつも、草があり、木が茂り、タンポポが咲く所だった。


家の庭にも、木や花があった。

なんと言ってよいのかわからない心の奥底を、私は言葉にする前に、いつも花や木や風に

話していたような気がする。私はそんなことをしているうちに、言葉を使わないで話すことを

覚えてしまったらしい。相手が木や風なら、言葉を選ぶことはいらない。心をそのまま、

胸からハートを差し出すようにして“…”というだけで、木も風も“…”と答えてくれる。

きっと、それを人にも聞こえるものにするために、私は作曲をするようになったのだろう。

私の曲の中にある風景は、見たものをそのまま写した記録画ではなく、私が風景と交わした

“会話の記録”である。








X おにぎり


私は小さいときから、話しかけるのが好きだった。

学校まで、歩いたり乗り物に乗ったり1時間かけて通っていた私は、一緒に歩く子が

いないと、知らない人に話しかけた。一人で歩いてもつまらない。

“いっしょにかえりませんか?”などと声をかける。小学生の女の子がである。

若いサラリーマンや、おねえさん、おばさん。一度きれいな女の人に声をかけたら、気味の

悪そうな顔で、スウッとその辺の店に入って居なくなった。マカれてしまったらしい。


高学年になってバスで通うようになった。

畑の中の旧街道にポツリポツリとある停留所から乗る客が、一斉に降りる終点の駅まで、

30分の路線に便は1時間に2本。朝はたいてい同じようなメンバーが乗り合わせた。

“ねえみなさん、いつか、このバスの同窓会をしませんか?”と、私は乗っている人たちに

言いたくてたまらなかった。


お人形さんのような下級生の女の子と仲良しになった。乗り合わせるたびにおしゃべりして

いたら、何年もたってから、ひょんなところで親どうしが顔を合わせた。あちらの親御さんが

“まあ、娘がお嬢さんにいろいろ教えていただいて、今でも申しますのよ”と言われたそうで、

何を教えたのか覚えがなく、あせってしまった。



ちょっと苦味走った、今にして思えばハンサムな中年のおじさんが、これも毎朝バスに

乗ってきた。私の知り合いにないタイプだったので、違った色のクレヨンを並べるように

“コレクション”に加えて楽しませていただいていたら、これが、通っていた学園の中学部の

数学の先生だった。中学生になった最初の日、教室の黒板の前に立った“おじさん”は、

学年主任になりきっていて、あの朝のバスの中の人の面白さは影も形もなく、人と人とを

へだてる“立場”というものの感触を、私は初めて味わった。
そえがきへ


“ほんとうは誰でも、話せばわかるのだ”という気持ちが、私の心の底にある。

そうばかりではないことを今は知っているのに、心の底を流れる“気持ち”は変わらない。

作曲をするようになって、自分の音楽を「ひらがなの手紙」と呼ぶようになったのも、

小さいときからの“話しかけたい気持ち”のつづき。“かたつむり出版”などと称して、

風車に挑むドン・キホーテよろしく、たった一人で楽譜の販売など始めたのも、知らない人に

話しかけた小学生の、ヤマイの果てと思われる。


私にとって、社会はおにぎりのようなもの。大きく見えても、一つ一つのごはん粒は、

“話せばわかる”個人に見える。楽器店も新聞社も、歩いたりバスに乗ったりして通ってくる

“おじさん”や“おねえさん”が集まって作っているのだから、私の話を聞いてくれるかも

しれない、という気がする。ただ私ももう大人なのだから、話に耳を傾けて下さった方たちに

互いの“立場”を考えない馴れなれしさで、つけ入るようなことがあってはならないけれど。








Y 恩赦・かたつむり


この小曲集の出版元《かたつむり出版》は、社長以下総勢一名、堀江はるよのCDや

楽譜を出版、販売している。社是はアメリカ合衆国の独立宣言を頂戴して、

      “ of Myself, by Myself, for Myself ”

私の、私による、私のための、たった一人の出版社(?)…と称するものである。


楽譜は作曲家お手のものの自筆譜、文章はワープロで打ち出し、ダイレクトなものを

作って印刷に持ち込む。電話で注文を受けた本人が、納品書を書いて物品受領書と返信用の

封筒など入れて荷造りして、宅急便で送るべく近くのクリーニング店まで持ってゆく。

最初は、納品書が何なのかも知らなくて、人に聞いて一つずつ憶えていった。


なにしろ“社長以下総勢一名”なのだから、労使関係に問題のないことこの上なく、

人事関係者には涙が出そうに羨ましい会社ではあろうけれど、社長が風邪をひけば社員全員が

風邪をひく。なにもかも遅れに遅れて徹夜でワープロを叩いていた夜更け、ねむたくて

ねむたくて思わずコックリしたとたん、キイに手がふれて、いま入力したばかりの文章が

タッタッタッと行ごと削除になって、半頁も消えてしまった。あんまりがっかりして

悔しがる気力もない。文句を言う相手もないので、おとなしく入力しなおした。




お店によって、納品書や領収書の書き方に決まりがある。

これ以上小さいものはないミニチュア出版社を、まともな出版社と同様に扱っていただくの

だから、出来る限りご迷惑にならないように、そういう書類も決まりに添って書きたい。

とは言え、丁寧に説明していただいて、もう大丈夫のつもりでいたのに、いざ書く

段になったら何がなにやら判らなくなって茫然としてしまう、などということもあり、

そんなときは、ありのままをお話して、もう一度教えていただく。


そのときもそういうようなことで、電話でお店の担当者にレクチャーを受けていた。

話の中に、しきりと“オンシャ”という言葉が出る。オンシャ…恩赦?…何だろう…???

本を読んでいるのなら、知らない言葉は飛ばしておけば、いずれ何となくわかってくる。

あえてその場でしらべたりしないけれど、忙しい方が貴重なお時間を割いて説明して下さって

ているのに、“さっきのあれぇ、やっぱりわからなくてぇ”なんて、あとでお電話することに

なっては申し訳ない。恐る恐る質問してみた。


“あの、オンシャって、なんでしょう?”


これを読んでおられる方の大半は、ご存知だと思う。

“オンシャ”は“御社”。私の唯一知っていた“貴社”という言い方のヴァリエイションで、

大きなお店の経理担当のその方は、超ミニチュアの〈かたつむり出版〉にも、礼儀正しく

規定の敬語をもって接してくださっていたのだった。


作曲において、私はプロとして通らない仕事はしないつもりでいる。

けれど、出版や販売、営業については、悲しいほどの知識しか持ち合わせない素人だ。

そういう者がプロの世界に紛れ込むことで、どれだけご迷惑をおかけしていることだろう。

それを許して受け入れて下さる方々を、私は本当に有り難く思っている。








Z 紙芝居


手作りの好きな私ではあるけれど、作曲家にとって、このような方法が一番良いと考えて

〈かたつむり出版〉を始めたわけではない。遅れて世の中に出てきた、有名とは言い難い

人間が、自分の音楽を世の多くの人に聴いてほしいと思うなら、どうしたら良いだろうと

一生懸命考えたら、こういうことになってしまった。


作曲家の多くは、現代音楽と称する前衛的な、耳に優しいとは言いかねる曲を書く。

コンサートに来るお客様は、有名で耳慣れたものを好む。せっかく聴きやすいものを書い

ても、前衛的な音楽によって植えつけられた“生きてる作曲家”への拒絶反応は強烈で、

無名な作曲家の新しい作品は、なかなか、メジャーなコンサートで演奏してもらえない。

演奏されても、出版の機会は少ない。今では事情が違うかもしれないけれど、出版社からの

出版という形をとっていても、実質的には“買取り”という形での自費出版である場合が

多いという話も聞いた。


そんな事情から、書かれた作品の多くは、作曲家か演奏家の引き出しで冬眠してしまう。

私は自分の書いた曲を、そんなふうにしたくなかった。魅力がないのなら仕方がない。

けれど、音楽の世界に戻ったときから、私の道は曲をパスポートに開けてきた。私の音楽に

ふれた人たちが、共感をもって私に手をかしてくださって、水が低い方へ流れるように

自然に道が開けて、私はここまで来ることができた。

私の音楽には、ささやかではあっても、私の音楽だけの持つ“色”がある気がする。


“そんな気がする”としか言いようがないけれど、私にはどうしても、私の音楽が、

この世にあったほうが良いもの、私の死とともに消えてしまうには惜しい、誰かの役に

立つものと思われてならない。どうしたら、これを世の中に送り出し、たとえ片隅にでも

生き残る機会を与えてやることができるだろう?




私がひとりで“楽譜を買ってください!”と叫ぶ気になったのは、もしかしたら、幼い頃

くり返し見た「マッチ売りの少女」の絵本の影響でも、あるのかもしれない。

私の母は小学生だった私に、この「マッチ売りの少女」の絵本を、紙芝居に作らせた。

クリスマス・シーズンに始まって1月、2月、お客様がおいでになると、お見せする。



♪ おそらはキラキラ さむい夜に おうちはないのか マッチうり… ♪


哀しげな歌に乗って、ソロソロと1枚目が引かれ、街の情景。そしてナレーション。


“それは さむい さむーい ふゆのよるの ことでした

あわれなマッチうりのしょうじょは ぼうしもかぶらず くつもはかずに

あちらこちら マッチを うりあるいていました”


“おじさん! マッチをかってください…”

(セリフとともに、私は2枚目をサッと引く。)


“‘マッチなんか いらないよ!’

おじさんは スタスタと いってしまいました”



邪険な中年男のイメージを観客に伝えるべく、私は太くて低い声を出し、つづいて

がっかりした気持ちを表そうと声を落とす。しかし“スタスタ”という擬音だけは、

いかにも無情に、それらしく言わなければならない。

画面には片側をふさぐように、暖かそうなオーバーで葉巻をくわえた大柄な男が立ち、

そのそばに、ぼろぼろの赤い服を着て頬のこけた少女が、マッチの箱をさし出している。




にぎやかなクリスマスの夜の街角で、スタスタと行ってしまう無情な大人の群れに向かって

幼い女の子が“マッチをかってください!”と呼びかける勇気は、深く私の心に残った。

紙芝居をめくりながら“マッチをかってください!”と叫ぶたびに、私はこんなに

小さな女の子でさえ、生きてゆくためには勇気をふるうのだ、と思った。


今でも、営業めいたことをするとき、ふと、足を90度に上げた痩せた男の絵が、

頭をかすめる。


“マッチを ぜんぶ うってかえらないと

おうちには こわい おとうさんがいて

しょうじょを、それは それはひどいめに あわせるのでした”


我が家に“こわいおとうさん”はいない。けれど葉巻を吸っている男にマッチを売るような

相手にとって何の必然性もないことをしているのではないかと、一瞬思う気の弱りが、

マッチを仕舞って帰ってしまいたい気持と、それはできないと思う気持の葛藤となって、

私に、昔の紙芝居の4枚目の絵を思い出させるのだろう。


“背筋をのばさなければ!”と、私は思う。

自分の大切な作品を、知らない人たちに聴いてほしいと思うなら、誰よりもまず、

自分が力を尽くさなければならない。世に知れた名前や肩書きという美しいドレスを

持ち合わせないのなら、相手が耳を傾けてくれるように、心をこめてハッキリと、聞こえる声で

ものを言わなければならない。作曲家として生きたいなら、心をこめて作った作品を、

背筋を伸ばして、敢然と売らなければならない。








[ 風に乗って


1994年に、私は初めて《かたつむり出版》の名で「堀江はるよギター曲集 T・V 」を

出版した。95年に同じく「堀江はるよギター曲集 U・W 」を出版。あくる年のつもり

だった小曲集「はるのむこうへ」の出版は延期して、97年4月、私のギター独奏曲の

ほぼ全曲を収録したCD「ひらがなの手紙 1・ギターの曲を集めて」を、ギタリスト

松本吉夫氏の演奏、アンデルセン企画の林英幸氏の録音で製作、発売した。

現在は2枚目のCD「ひらがなの手紙 2・リコーダーの曲を集めて」を、リコーダーの

小林達夫氏の演奏により準備中。この小曲集「はるのむこうへ」も、他の作品に加えて、

全曲、その中に収録の予定である。


「堀江はるよギター曲集W ・ポケットの中から」にエッセイの形で解説を載せたのを

はじめ、他の曲集にも、私は文章や、短い詩のようなものを載せた。

作曲家が音符でなく文字で物を言うのは邪道ではないかと、ためらう思いはある。けれど

私の音楽が、ここに、こんなふうにあることを、一人でも多くの方に知っていただくために、

そして、このドン・キホーテのような私の作曲家活動に力を貸していただくために、

何でもしてみようと思った。

それに加えて、この小曲集の出版に当っては、阪神大震災の被災地に居合わせた私の、

音楽家の一人としての気持ちを書いておきたかった。


もっと奥まったところにあるものは五線紙に書くしかない。

心にある思いを書きつくすまで生きたいけれど、一日生きればそれだけ思いもふくらむ。

ふくらむ思いを追いかけて、書きつくせないまま、人生の終わりを迎えられたら、

それが一番幸せかもしれない。


   身をのり出すようにして生きてゆこう!

       風に乗って、私も“はるのむこう”へ飛んでゆこう!







そえがき


“ハンサムなおじさん”は、後日私が生徒として筋の通らないことをした時、

わざわざ家を訪ねて注意してくださった、真面目で誠実な、良い先生だった。

誠に申し訳ないことであるけれど、文中では話の都合を優先して、このことに

ふれなかった。末筆ながら、ここに申し添えさせていただく。




                      1997年 12月 宝塚にて

                                堀江はるよ






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