友の会・ティールーム・カタツムリの内緒話

〜 かたつむり出版・パソコン史 〜

 

         
P.1  はじまり ワープロ 初めてのパソコン  活字の効用  



  
【はじまり】
-2006/1-

 2000年のある日、カタツムリは東京駅の構内の喫茶店にいました。
 テーブルの向かいには、M氏が坐っています。

 「今の仕事を終えたら、福祉関係の仕事をしたいと思ってるんだ」とM氏。

 「それはいいわね。ところで一つ、福祉関係の仕事があるんだけど」

 「え、どこ…どんな仕事?」

 「ここに、あなたの目の前に困っている人が居るの。
  カタツムリにホームページを作って頂けないかしら?」


 <かたつむり出版>には、販売網や広告媒体がありません。
 初版の「ひらがなの手紙」は、朝日新聞の「ひと」に取り上げられ、月刊「ステレオ」の
 CD優秀録音に選ばれましたが、後のケアが出来ず、営業的な効果は持続しませんでした。
 今度のCDのジャケットにはホームページのアドレスを入れたい…でも、その頃の私には、
 どの参考書もチンプンカンプン。自分で立ち上げるのは不可能でした。

      *       *       *

 ホームページが出来て3年後の2002年に、<かたつむり出版>は移転しました。
 思いがけないことが次々起きて、カタツムリの活動も中断しました。その間の空白を、
 ホームページが埋めてくれました。様々な繋がりが切れずにすみました。

 パソコンもホームページのソフトも、ここ数年でビックリするほど進歩しました。
 あらゆる操作が、以前とは比較にならないほど楽になり、分かりやすい解説書も沢山
 出版されています。2004年の末に、私は「カタツムリの独り言」を作りました。
 自分で製作してみて初めて、サイトを立ち上げる大変さが、具体的に分かりました。
 改めて深く、M氏に感謝しています。

      *       *       *

 ところで、このM氏、ボランティアのデパートみたいな人で、あっちこっちに出没。
 区のお祭の手作りコーナーでは竹トンボ作りの講習。盆踊りでは櫓の上で太鼓を叩き、
 数箇所のアマチュア・オケで世話役をしつつ、自らも演奏するという八面六臂の活躍。
 なおかつ朝の7時半には、お勤め先の机の前におられるそう。

 あるとき手帳を見ながら「あれ?…明日は予定が無いよ。困ったナ、どうしよう!」と
 つぶやいたには、思わず絶句。私だったら、一日ノンビリできると大喜びなのに…。

 ちなみに、エッセイ「桜」に登場する「白髪の紳士」は、この方です。


 
 

  【ワープロ】
-2006/2-

 ほんとは、電源の入るものは苦手です。
 ONとかOFFとか書いてあるだけで恐怖!

 宝塚歌劇団の稽古ピアニストをしていた時に、大劇場のエレクトーン奏者が一人しか
 いなくて、同じ鍵盤楽器だから弾けるだろうと交代要員にされました。仕事ですから
 一生懸命練習したものの、性が合わない…楽器の気心が知れなくて泣く思いでした。
 あんな弾きにくいものはないです。足踏みのオルガンは怖くないのに。


 パソコンの出てくる前に、ワープロってありましたね。
 初めの頃のコンピューターは、大きくて複雑で、第一とてつもなく値段が高くて、
 個人で持つのは無理だし必要もない。どうせ家庭でするのは文章書きと名簿作りくらい。
 それならコンピューターまではいらない。ワープロで充分と思ってる人が多かった…
 そのワープロだって、個人で使おうという人は、どちらかといえば進んだ人でした。

 我が家では、同居人のアリさんが、会社のワープロを仕事用に持ち帰っていましたが、
 カタツムリは興味なし。使わせてもらう気なんて、全くありません。

 だって、どうして日本語を書くのにローマ字入力!?
 ヘボン式と訓令式と、どっちで打ったら良いのでしょう?
 キイボードを見たら、「あいうえお」でも「ABC」でも「いろは」でもない…
 なんともアトランダムな状態に、アルファベットがバラまいてあります。
 それを見ただけで、拒絶反応を起こしました。


 そんなこんなで“ぜ〜ったい、やらない!!”と宣言していたワープロですが、
 拝み倒してでも使わせて頂かなくちゃならない事態が発生したのは13年前の6月。
 ひょんなことから、響きの良い小さな美しいホールでのコンサートのマネジメントを、
 カタツムリが担当することになりました。

 初めてのことで、力不足なんてものじゃありません。困ったことは沢山ありましたが、
 一番困ったのが、文字の書けないことです。いや文字くらい書けますが美しく書けない。
 美しくなくても良いのだけれど、大人らしい字が書けないのは問題です。
 書いたものが冗談じゃなくて、マジメな文書なのだと人様に納得して頂けるような、
 社会人らしい文字が書けない…とてもじゃないけど信用してもらえません。

 協力をお願いする先へお送りする資料や、面識のない方々への御案内葉書など、
 “文字が下手でも手書きには心が”では済まない様々な文書を、“らしく”作成する為に、
 一念発起、ワープロに取り付いたのが、パソコンにつながる道への第一歩でした。

 このページの背景と同じ黄色の表紙の説明書が、目に浮かびます。
 担当したのは「第一回・堀江はるよの作品によるコンサート」
 一週間目に、初めてのワープロによる作品、「御案内葉書」が出来ました。

 うれしかったなぁ〜





  【初めてのパソコン】
-2006/3-

 初めてパソコンを見たのは、どれくらい前だったのでしょうか。
 本体に重ねて置かれた大きなデスクトップが、のししかかるように私を見下ろしていて、
 その重量感と「顔」の大きさから、奈良の飛鳥寺の大仏を連想しました。
 あの大仏さんは、お顔が扁平で角ばっていて、体の割りに大きいんですよね。

 あの頃のパソコンは、初期画面を立ち上げるのからして一苦労でした。
 意味不明の横文字を打ち込むと、愛想の無い白黒の画面にピコピコと文字列が現れる…
 また打ち込むと新たな文字列が現れる…また打ち込むと…という事を何度か繰り返して、
 白黒画面と格闘すること暫し、やっと何やらロゴが現れた…ような気がします。


 パソコン関係の会社に勤めていた弟が、私に立ち上げ方を教えてくれました。
 一生懸命習いましたが、一度や二度では憶えられません。夜習っても朝には忘れてて、
 短い里帰りの間に立ち上げ方だけでもマスターしようという試みは失敗に終りました。
 今なら、立ち上げなんてボタン一つですよね。あの苦労はナンだったんでしょう!

 弟が新しいパソコンを買うというので、古いのを貰う事にしたのは、それから数年後の
 1994年。まだ関西にいた頃で、東京からはるばるダンポール三つに分けて宅急便で、
 デスクトップ、本体とキーボード、プリンターと参考書が届きました。

 あらかじめ付けておいた印に従って必死でコードを機械に繋いだものの、それから先が、
 どうしたら良いか分からない。東京住まいの弟が出張で関西に来るのを待って、もう一度
 イチから立ち上げ方を習いました。

 いらなくなった古い方を貰ったのですから、立ち上げが難しいのは変わってません。
 メモまでとって憶えたつもりが、弟が帰ってしまったら「дЭ×Я=?!?」
 書いたメモの意味すら分からなくなって、ギブアップ。
 このパソコンは、そのままお蔵入りしました。




  【活字の効用】
-2006/4-

 1990年代中頃からでしょうか。マンションの掲示板等に、今までの手書きに代わって、
 ワープロで作った「お知らせ」が貼り出されるようになりました。

 当番の人が手書きした「お知らせ」は、温かみはあるけれど、権威は今ひとつ。
 なんだかその人の個人的な意見も入っていそうで、“ふうん”と読み流していましたが、
 ワープロだと違います。“活字ってモットモらしく見えるんだ!”と、改めて思いました。
 個人からの発信が、今より少なかったせいでしょう。活字で印刷された=公に認められた
 情報…のような錯覚は今もあるけれど、当時はそれがもっと強かった気がします。

 二十五年のブランクを経て復帰した作曲家・堀江はるよは、今もマイナーな存在ですが、
 カタツムリがマネージメントを担当するようになった当時は、更に更にマイナーでした。
 そんな堀江はるよの音楽を、どうかして人に聴いてもらえるような状況を…その糸口を
 作るのに、“ワープロって役に立ちそう!”とカタツムリは考えました。

 個人が家庭で、活字の印刷物を、百部単位でなく自分の必要とする数だけ、僅かな費用で
 作ることが出来る…ワープロの誕生は、マイナーな発信者にとって画期的な出来事でした。

      *       *       *

 話は戦国時代に飛びます。
 陣中です。御前で軍議が開かれました。

 「先鋒は誰が良いか。相応しき者を推挙せよ」殿様がおおせられます。

 先鋒を務めるのは名誉なことです。しかし非常に難しい戦いです。
 よほどの者でなけれは、務まらないでしょう。居並ぶ武将は誰も声を発しません。
 殿様がイライラしはじめた時に、末席から進み出た若武者がありました。

 「私こそ、そのお役目に相応しいと存じます」

 武将たちは目をむきました。
 殿様は「相応しい者を推挙せよ」と言われたのです。
 居並ぶ百戦錬磨の武将たちを差し置いて、自ら名乗り出るとは僭越至極。
 自分で自分を推薦するなんて聞いたこともありません。
 「なぜ」と問う殿様に、若武者は答えました。

 「皆様もご存知のとおり、私の父はこれまに数多の功を挙げた武将でございます。
  私は父を心から尊敬しております。しかし全てを知り尽くしている訳ではありません。
  ですから父といえども、確信を持って推挙することは、私には出来ません。

  この座には立派な武将がお揃いでございます。
  しかし私は皆様を、吾が父を知るほどには存じ上げておりません。
  ですから、この中のどなたかを推挙申し上げることは、私には出来ません。

  しかしながら私は、私のことは良く知っております。
  私ならば、このお役を必ずや、立派に相務めるでございましょう。
  私には、その確信がございます。どうぞこの度の先鋒を、私にお命じ下さい。

      *       *       *

 この話、ずっと以前に古今逸話撰集という本で読みました。
 大筋を記憶で書きましたが、若武者の名前は忘れました。たぶん皆さんご存知の人です。
 言葉どおり、立派に先鋒を務め、更に武功を重ねて、後に大そう出世したそうです。
 でも日本では珍しい話ですよね。珍しいから、逸話として語り伝えられたのでしょう。


 昔も今も日本では、自分で自分を売り込むと、良い印象は持たれません。
 堀江はるよさんが自分で「私の音楽は素敵なんです」なんて言うと、違和感を覚える人が
 多いんじゃないでしょうか。自分で言うなんて信用できない…って考え方もあります。
 でも、誰もPRしてくれなかったら、自分で言うしかありません。
 マイナーな作曲家は、どうしたら良いのでしょう?

 ワープロが、問題を解決してくれました。
 有名人の書いた本にはゴーストライターがいたりしますが、作曲家・堀江はるよさんは、
 かたつむり出版のゴーストライターになりました。自筆では書きにくいPRの文章も、
 ワープロで…活字で書けば、モットモらしくなります。
 かくして、かたつむり出版の歴史は、ワープロと共に始まりました。


 一つだけ、気をつけたことがあります。
 「かたつむり出版は社長以下総勢一名。私の・私による・私のための事務所です」と、
 カタツムリ=堀江はるよであることを、いつもハッキリと言うようにしました。
 私にとって<かたつむり出版>は、皆さんと一緒に楽しむゲームです。
 ゲームにはルールが必要だと、カタツムリは思うのです。



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