阪神大震災に際して〜音楽にたずさわる者からの発信

音楽は人の心を癒します。
今回の震災に於いても、様々な形で音楽が癒しを提供するでしょう。

けれど考えて下さい。
音楽は“自然にそこにあるもの”ではありません。。
長い修練を積み、不安定な収入で生活を支える努力を重ねて、
やっとなんとか食べられるようになった幸運に感謝しつつ、
音楽家の多くは暮らしています。

被災した土地にも沢山の音楽家が生活していました。
安心して音の出せる住まいを失い、良い演奏に欠かすことの出来ない高価な楽器、
収入のもとであった演奏の場、教える場や人の繋がりを失って、
どうしよう!…と思っても答の見つからない音楽家が、
今、被災地に少なからず居るはずです。

音楽は人の心を癒します。
その音楽の後ろには、音楽を奏でる人がいます。
音楽家であることが困難になった音楽家たちのことを、
どうぞ皆さん考えて下さい。

                 堀江はるよ(2011年4月・追記)

 「解説

 「お願い
震災一週間後


被災地より
三ヶ月後

必要とエゴの間で
十一ヶ月後


 
解説  






  阪神大震災のとき、私は兵庫県宝塚市に仕事場を持ち、西宮に住んでいました。
  以下、ここに載せた文章の内の最初の三つはは、そのときに書いた文章です。 
  短い期間に一つの事件について、異なる立場の人たちを対象に書きましたので、
  内容が重複しています。御了承下さい。

 
お願い  













































  (1995年1月・避難先からのFAX)

  ご心配をおかけしております。
  私は、宝塚の仕事場、西宮の自宅とも建物が無事、
  楽譜(販売用も)、楽器、本人、家族も無事です。
 
  ガス水道が止まり生活物資を得るのが大変なのと余震の恐怖で、
  安全な豊中の友人宅に避難しました。
  少し離れただけで、町は何事も無かったかのように物があふれ、
  “日本にまだこんな所があったか!”と目まいをおぼえました。
  
  私は何とか自分のまわりの人の力を借りて立ち直ってゆくことが
  できると思いますが、音楽関係者の中には家を失った方、家族を失った方、
  楽器を失った方もおられます。今はまだ国からの援助も考えられますが、
  表面的には一応おさまった頃、演奏の場が無くなり、教える場所が無くなり、
  習いに来る生徒が無くなって、収入を得ることが難しくなる方は、
  被災された方はもちろん、被災されなかった方の中にも出てこられると思います。

  只今の援助が有効であり有難いのはもちろんですが、音楽界というものを考える時、
  有能な演奏者が、このことによって音楽家としての生命を損なわれないよう、
  また勉強中であった方達が、志を曲げないで勉強を続けて行かれるよう、
  余力のある方達からの長期的な配慮に基づく御援助が頂ければ、本当に嬉しいと思います。

  ショックで やはり少し頭もボーッとしておりますので、
  思いつくままに、こうした文章をお送りするのは、どうかなとも思いましたが、
  私自身、仕事場と楽器が無事とわかりますまでは、これからどのようにして
  作曲家としての生命を維持しようかと、生き残ったことを喜ぶことも忘れて悩みました。
  どうぞ援助の必要な方達の為に、余力のある方達のお力が集められ、
  小さなものも集められて大きな助けとなりますよう、御配慮をお願い申し上げます。
 
                               かたつむり出版
                                   堀江はるよ

  なお、避難先のこの家は音楽家ではなく、普通の家です。
  被災者の知人との連絡で電話もよく使われますので、
  度々のお電話、FAXは御遠慮下さい。
  特に、夜20:00〜朝8:30(平日)と、土日の電話は、
  ごく手短にお願いいたします。

  ☆ あちこちにFAXいたしますので、
    一つの原稿を皆様共通に使わせて頂いております。
    失礼をお許し下さい。

                       堀江
    

     
被災地より

























































































  (1995年・現代ギター・リレーエッセイ欄への寄稿)

  たいていの災難には何かしら反省の余地がある。
  痛い思いにヒイヒイ言いながら、あんなことを しなければよかった、
  こんなことをしなければよかったと、後悔の念が心をよぎるのが、
  いつものパターンなのに……
 
  1月17日5時46分、西宮の自宅(4階建マンション最上階)のベッドの上で、
  マンガに出てくる怒ったネコよろしく縦にビンビン跳び上がりながら、
  私は何も反省することがないのに茫然としていた。

  ガシャガシャガシャッとものすごい音がしたのは
  12段のプラスティックケースの引き出しが一斉に飛び出した音で、
  派手なわりには無害。重く危険な民芸家具の箪笥や本箱の本、食器棚の食器は、
  ただ一回のドン(ガシャ)という音で倒れ、飛び出した。

  真っ暗な中で私に判ったのは、
  ベッドから降ろした足の下から、あたりを探った手にふれるものまで、
  一瞬前とはすべてが変わっていて、うっかり踏んだり動いたりはできないということだけ。
  カーテンをあけて少し明るくなったのを頼りに入口のドアを開ける。
  倒れた下駄箱をもとに戻して玄関への通路を確保。
  ガウンの上に布団をかぶって、夫と共に前の公園へ。
  屋上のアンテナがリボンのように揺れた一度目の余震の後、
  もう大丈夫かな…という気持になるまで約3時間。
  中年のアベックよろしく肩寄せあってベンチにすわっていた。

  自宅にもどって最初にしたのは水の確保、お米を炊いておにぎりを作ること。
  水は屋上のタンクが空になると同時に止まり、テレビはしばらくBSしか映らなかった。
  電話は外れていた受話器に気がついて戻したとたん東京にいる娘から
  かかったのを最後に通じなくなり、特に被災地間はほとんど不通。
  宝塚の仕事場が無事とわかったのは三日後だった。

  水道もガスも止まり、復旧は水道が2月10日深夜、
  ガスは2月24日に突然、係員が現れて開栓。
  予告する間も惜しんでの突貫工事だった。


  大学の同窓会から安否を尋ねるアンケートが来た。
  往復はがきに印刷された返信欄にマルをつけるようになっていて、
  まず“無事”と“被災した”の二つに分かれている。
  一瞬手が止まった。私は“被災した人”かしら?

  全国ネット的に表現すれば被災者には違いないけれど、
  皆さん被災者の兵庫南部に於いては、基準が違う。
  生きているか? 住宅がこわれていないか?
  一般には、この二つがOKなら、もうそれで全てであって、
  その他のことは被害に数えない。

  細かな被害の積み重ねは、物質的にも肉体的にも精神的にも
  無視しがたい影響を人々に与えているのだけれども、
  空気のように当り前になっているそんな日常生活の破壊をもって
  “被災した”と考える人は、変な言い方だが、被災地にはあまりいないだろう。
  私にしても、あの恐怖、家の中を靴で歩き、コップ一杯の水で一日をすごし、
  ビールで体を拭き、トイレの使い方にもアイディアを駆使した経験を、
  まるきり無かったように扱うのは、少し淋しいけれど、
  だからといって、“被災した”にマルをつけようとは思わない。


  外部から来る人にとって、
  被災地は意外に明るく、被災者は案外と元気そうに見えるかもしれない。
  傷ついた皮膚が塞がろうとするように一刻も早く平常に戻ろうとする本能が人間にはある。
  お役所はどうあれ、庶民は被災したその日から立ち直るための努力を始めた。

  自分一人が被害を受けたのなら、百も千も言いたいことがあるけれど、
  誰もが、もっとひどいめにあった人を知っている。
  “もういいから逃げて!”という悲痛な叫びを最後に
  生きながら焼かれていった人のいる被災地で、
  誰が愚痴をこぼすことができるだろう?

  加えて経済的な事情がある。店は壊れても商品は、
  腐らないうち、季節の変わらないうちに売ってしまわなければならない。
  かくして、震災後一ヶ月の神戸にお雛様が売られ、
  町は明るく明るく演出されて、マイナーなものは陰に隠される。

   *    *    *    *    *

  大小さまざまな演奏スペースが使用できなくなった。
  企業への打撃と自粛ムードで、音楽を楽しむゆとりを無くした人も多いだろう。
  演奏、レッスン、営業、どの面から見ても影響が考えられる。
  今はチャリティーコンサートが賑やかで“キリギリスの出番”の感がなくもないけれど、
  それが終わったとき、タベモノはあるのだろうか?

  アリと違って、キリギリスは援助の対象になりにくい。
  まして個人営業の音楽家が“私を助けて下さい”とは、言いにくい。

  “いつまでも震災でもないだろう”と言うセリフが聞こえ始める頃から、
  被災地とその周辺の音楽関係者たちの苦労が始まるのではないだろうか。


    
必要と
エゴの間で
   



























































  「阪神大震災いのちのメッセージ」(写真・長島義明 バーズアイ出版刊)への寄稿
   

  一月十七日朝、私は西宮の自宅にいた。
  メチャメチャになった室内を靴で歩き、コップ一杯の水で一日を過ごし、
  スーパーの袋に新聞紙を入れた簡易トイレで用をたし、ビールで体を拭く数日の後、
  余震への恐怖から豊中の友人宅へ避難した。駅に降り立って、明るい日差しのもと、
  ネコのオシッコよけのペットボトルが水を満たして行列しているのを見たときには、
  異次元に来た思いで頭がクラクラした。

  数ヵ月後、同窓会から震災についてのアンケートが送られてきた。
  最初に「被災した、被災しなかた」どちらかに丸をつけるようになっている。
  ボールペンを持つ手が止まった。私はどちらなのだろう?
  ともかく命に別状なく、家もある。
  一瞬、火の中で「いいから行って!」と叫んだ人のことが心をよぎり、
  私は「被災しなかった」に丸をつけた。

     *     *     *

  「いま大きなものを建てても中途半端ですからねえ、
   とりあえず小さなものを建てて、息子たちが帰って来たら
   大きな家に建て替えようと思ってますの。」とバスの中で老婦人の会話。
 
  丘の上には 私が一生かかっても手に入れることのできないような
  立派な家が次々と建ってゆく。復旧、旧に復するとは、
  皆が同じものを持つようになることではない。
  災害時の異常な生活から「ふつうの生活」に戻ろうとして、
  ふと考えてみると、震災の前から被災状態にあったと、
  言えば言える人たちも少なくはない。

     *     *      *

  被災した友人の援助に走りまわりながら、
  自責の念でノイローゼ寸前になった人がいると聞いた。
  友人は何もかも失っているのに、自分は妻子のため自分のため、
  生活を守りながら不十分な援助をしていると思い詰めたのだ。

  当然のこととして問われなかったプライベートなエゴが、むき出しになった。
  「みんなよいこ」であるべく育てられてきた私達は、
  「いいから行って!」と叫んだ人の前に、誰も良い子でありえなくなってしまった。
  自分にとって捨てることのできない必要と、人として許されないエゴを、
  自分の責任に於いて選り分け、「わるいけど、ごめんね。」と
  痛みつつ生きなければならなくなった。

     *     *      *

  震災から十ヶ月余、不信感が少し薄れてきた。
  人に対するものではない。日常に対する不信感。
 
  いまここにある机が、次の瞬間にもここにあるという
  当たり前の約束事の上に、日常の生活は成り立っている。
  それが一瞬にして裏切られてしまったショックは、
  言うに言われぬ不信感を私の心に残した。
  やっと落着いた生活も、いつどうなるかわからないという気持が、
  今も私の中から消えない。

    
「カタツムリの独り言」          ★ 目次へ戻る